らびっとブログ

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アニメ業界の低賃金は手塚治虫のせいではない?

2020/8/30 に掲載された中川右介氏の記事「アニメ業界の低賃金は手塚治虫のせいなのか? 見えてきた意外な真実 - 虫プロは「高賃金」だった!」は論点がずれてると思う(敬称略。最終更新 9/3 20:30)。

 

まとめると

  1. 中川氏の記事は「1989年の宮崎駿による手塚治虫への批評」への批判
  2. 宮崎は「鉄腕アトム製作費安値の前例になった」と書いた
  3. 中川氏は「当時の虫プロ高給で、悪いのは後続2社、宮崎の手塚評は間違い」と主張
  4. ただし中川氏記事の元ネタは2007年の津堅信之氏書籍と思われ、新情報は無い。また津堅氏主張には、くみかおる氏からの批判もある。

  

つまり、製作費の話に給与の話で反論して「間違い」との主張は、論点がずれてる(製作費の話は事実)。また高給に経営的裏付けは無く大赤字虫プロは倒産した。

 

以下が焦点の、上記2の宮崎による手塚批評(後述の田川さんツイート画像より)。

f:id:rabit_gti:20200901102723j:plain

 

そして問題の中川氏の記事は以下。

gendai.ismedia.jp

 

この記事の趣旨は以下だ。

  1. 手塚が鉄腕アトムを安く作ったから低賃金になった」と言われる。
  2. この誤った歴史を拡散したのが宮崎駿の1989年インタビューだ。
  3. これは宮崎が有名になった後で、手塚の追悼特集中だ。特異/非礼だ。
  4. 確かにアトム受注55万円は、当時の東映動画作品の時間当たりと1桁安い
  5. 「手抜き」だが、そのお陰で「ストーリー重視」になった。
  6. しかし虫プロはキャラクター収入で高給だった
  7. 続いたエイケン/東映動画がキャラ収入ないのに安値受注したのが悪い。
  8. 宮崎の手塚評はみんな間違いだ。

 

筆者は「人は断片的な「事実」をもとに物語を「捏造」してしまいがちだ」とある。全く同感だ。ただ問題は、この記事自体がそれをやってないかということだ。つまり、事実の断片から、恣意的な手塚弁護&宮崎批判を捏造しているようにしか見えないのだ。

 

ちょっと考えてみよう。

  1. 鉄腕アトム(1963年)の「手抜き」批判は放映当初から(特に東映動画関係者から)
  2. 1989年の宮崎発言は従来からの持論を繰り返しただけ(有名になったので広く知られた)
  3. アトムが製作費安値の前例となった/されたのは事実(間違いではない)
  4. 虫プロのキャラクター収入は予想外の結果(事前計画ではない)
  5. 後続2社がアトムを超える製作費を要求できたかは疑問(別の争点)
  6. 宮崎は「引き金を引いたのがたまたま手塚さんだっただけ」と記載(テレビアニメ参入は突然発生)

 

今回は新事実もなく、製作費の話に給与で反論して論点がずれており、また手塚が最初からキャラクター収入を計画していたような誤解を招く表現などが散見されるのは残念だ。

 

 なお以下は蛇足ですが念のため。

  • 「手抜き」(リミティッドアニメーション)の結果は「ストーリー重視」だけではなく、止め絵を含め枚数のメリハリで効果を出す日本の演出作画にも発展した(中川氏は当然ご存知で省略しただけと思うが)。
  • もちろん手塚は漫画界に絶大な影響を与え、虫プロから多くの人材が広まった。ただ手塚は経営者として有能だったとは言えない(鈴木敏夫なき宮崎も同じかも)。また手塚はアニメを作りたくて漫画を描き、漫画にあれほど映画的手法を取り入れたのに、手塚本人演出のアニメは必ずしも面白くない。人間は得意分野も色々なのに、単純に善玉や悪玉に分けて断定するのは(試みは面白いが)不毛ではないか。
  • 没後直後なら批判しないのが非礼、と言う優等生的美学?は、クリエイターに要求すべきことか。(大変失礼ながら)両者とも子供な面も残せているから凄いのではないのか。
  • 筆者はいい事も書いているのに、上記の論点ずれが残念だ。

 

 

(追記1)

アニメーションにも造詣の深い漫画家の田川滋さんの一連のツイートの一部です。

 

  

 

  

(追記2)

今回の中川氏の記事の元ネタと思われるのは書籍「アニメ作家としての手塚治虫 - その軌跡と本質」(2007年、津堅 信之)。

 

この本の感想を一つ。

fujipon.hatenadiary.com

 

次は、津堅氏の本に対する、研究家のくみかおる(久美薫)氏の批判をまとめたサイトの、サワダさんツイート。

 

上記サイトの概要。 

  1. 手塚自伝の「出血大サービスで55万円で請けてしまった」が広く普及

  2. 津堅氏調査では実は155万円(広告代理店から100万円補填)

  3. しかし費用400万円超なので、受注55万/155万どちらも大赤字

  4. 虫プロ高給で「作家集団」を自称、しかし経営不在/持続不可

  5. 労使闘争激しい東映動画は冷ややか。宮崎駿「お金持ちが趣味でやった」

  6. どのスタジオも低賃金化虫プロ倒産

 

つまり津堅氏は「通説の55万円ではなく、実は155万円だった」と手塚を弁護したが、くみかおる氏は「費用400万超なので、55万でも155万でも大赤字なのは同じ。まともな経営が無かった」と津堅氏を批判。

 

個人的には、業界初のプロジェクトではパイオニアが情熱とリスクを持って参入するのは自然だと思う。しかし、収支が合わないと気づいてからも継続したのでは、経営不在と言われて仕方が無い。 

 

上述のくみかおる氏のツイート

  

 

(追記3)ツイッター見ると中川氏の記事を真に受けた方が9割以上に見える(手塚は悪くなかった、宮崎発言は嘘だった、遂に真実が解明された、など)。会議派は発言を控える面もあると思うが。

 

新事実も無いのに(元ネタは2007年)、いままで誰も指摘しなかったのは何故だろうと思わないのだろうか。しかも全世代では手塚ファンの方が宮崎ファンより多いはず。

 

なお手塚は漫画界でも原稿料を低く抑え続けた事でも有名だ。これは「私利私欲より、多くの読者に読んで欲しい」との美談と同時に、意図/良し悪しは別にして「日本で手塚先生より高い原稿料はありえない」との新規参入障壁ともなり、多数の連載/印税を持つ先行者以外には、新規参入は仕事というより人生を賭けるハイリスクな「まんが道」となった。悪く言えば一種のダンピング(不当廉売)による寡占で、テレビアニメも同じ流れ。これが寧ろ漫画/アニメの発達に繋がったとの議論もあるとは思うが、経済/経営視点では客観的事実と思う。

 

ちょっと脱線。製作費安値の責任論は歴史の if なので推測しても結論は出ない。もしアトムが500万だったら今の製作費も高額なのか、いずれ過当競争/買い叩きで最低水準の宿命ではないか、それともディズニー的な高品質/高費用のスタジオが複数できて競っていたのか、それは誰にも判らない。

 

一般論で言えば、当時結束した東映動画の激しい労働運動でも敗北し、まして参入容易で多様なテレビ業界では、よほど差別化/組織化できない限りは低水準だったのではないか。だからアトムに現状の全責任を押し付けるのはおかしいが、少なくとも初期はアトムが製作費前例(上限)とされ交渉困難だったのも多分事実ではないだろうか。

 

(まとめ)

客観的事実と評価は分けて考えるべき。無理な正当化のために事実を脚色するのでは歴史修正主義に陥る。

  1. 「手塚がアニメーター低賃金を始めたわけではない」のは事実
  2. 宮崎主張の「アトムが制作費安値の前例となった/された」も事実
  3. 上記2の責任論は色々考えられるが、結論が出るものではない。

(了)

 

安部政権を振り返る10の特色

2020/8/28 安部首相が辞任表明した。2回目だが体調なら仕方ない。安部政権の特色を10のワードで振り返りたい(敬称略)。

  1. 改革路線。第一次安倍政権は小泉改革継承を掲げて始まった。しかし田中角栄の列島改造、中曽根の民営民活、小泉の郵政改革などと比べると「働き方改革」「一億総活躍」など表面的/断片的で選挙/野党対策的なスローガンが多く、やってる感重視なのは残念だ。(過去の内需転換/民活/低炭素/持続可能社会など、次の方向性を打ち出して欲しかった。)
  2. 仲間重視。第一次安倍内閣での最初の批判は郵政造反派の大量復党だった。その後のお友達内閣、アベノマスク/GO TOの業者まで、良くも悪くも仲間重視が一貫。小泉は都市型政党への変換を目指したが、安倍氏は内輪重視。田中派は野党とのパイプを誇ったが、安部氏は国会内エレベーターで口を聞かないとの話も多い。性格なのか。(首相は本来、与党トップ 兼 全体の代表と思う。)
  3. 政治主導。実は民主党政権の官邸強化が基盤だが、調整型の多い自民党では珍しく、日銀/内閣法制局/検察庁人事など伝統的慣例を破り強引な運営を行った。保守というよりプーチンなどの権威主義に近い(政府の長というより、皇帝/共産党的に政府を指導するスタイル)。官邸の維新との蜜月は、公明党牽制もあるが政治スタイルも似ていた。
  4. 攻撃中心。調整重視の谷垣氏とは違う。仮想的を作り強い支持を集める。「日本を取り戻す」「この道しかない」。しかし愛嬌もあるレーガン/小泉と違って権威的/内輪的で「安部嫌い v.s. 安部サポーター」構造に陥った。悲願の憲法改正では安易な野党批判で審議停滞など老練さが無く一本調子すぎる。特に憲法修正案をコロコロ変えて信念が無い。他方で守備は苦手なのかコロナ対策では官邸の思い付き重視。(首相は本人がアイディアマンではなく、プロの上位マネジメントであってほしい。)
  5. アベノミクス。当初の三本の矢は「1.金融政策、2.財政出動、3.規制緩和」。3が本命で1,2は時間稼ぎ、つまり小泉改革の継承だった。しかし3が消えて次第に「デフレ対策、インフレ誘導」だけになり古い産業構造延命に変質。そもそもアジア輸入拡大やIT効率化の価格低下はデフレではなく自由経済の恩恵と思う。インフレ目標は最初から無理筋で当然未達成。震災後に借金して金を流せば株価/景気向上は当然だが、財政/生産性は悪化、少子化/移民も進まず閉塞感。(個人的には経済は労働人口が母数なので、ナショナリズム観点で計画的な移民受け入れが妥当。現状は内輪批判を恐れた先延ばし。)
  6. 消費税。安倍政権は財務省/消費税を敬遠する。2度延期し、増税しても全額社会保障財源の政府約束を変えて自分の政策に流用してしまう。(災害対策など時限的な減税はありうるが長期的には、実消費に比例した税金を取る消費税は、富裕層の負担が多く節税困難で、その富裕層からの税収を再分配し投資するのが社会保障だ。社会全体の再分配の話で、目先の個人的損得に騙されてはいけない。)
  7. 選挙に強い。国政選6連勝は偉業だ。ただし自党に有利な論点の無い時期に解散するなど解散権の濫用が激しく、野党自滅も大きい。首相の解散権に制約が無いのは先進国では日本だけだ。また1強で政府/当内多様性も低下した。(個人的には投機的自由主義の強いアングロサクソン的な二大政党制は時代遅れ/夢想で、欧州大陸的な多様性ある比例代表制と長期間の連立交渉が理想だ。)
  8. 空前の親米。歴代政権も親米だが、氏の政治信条は戦前復古(反米民族派)なのにTPP/防衛装備購入など空前の対米開放。一水会など民族派右翼からの「売国」呼ばわりも仕方ない。中国/北朝鮮対策での対米譲歩説が一般的だが、安部氏はアメリカ留学時に感動したとの説が意外と本当かも。大統領的な政治主導も同じだ。
  9. 外交。氏の得意分野だが、実は成果は少ない。相手のある事とはいえ、北方領土/拉致問題は硬直化だけで相手にされない。「自由と繁栄の弧」は死語。嫌いな相手ともギブアンドテイクでカードを切っていくのが外交では。(北朝鮮は非常に冷静合理的な外交をする。国民は予想不能で怖いなどと騙されてはいけない。)
  10. 辞め方。2回とも健康問題だが、1回目は最初は「私が辞めて国会が進むなら」と愛国的犠牲精神を演出し、後に健康問題と判ってカッコ悪かった。2回目は戦後最長を待ってからに見えるが、記者会見は判り易かった。(普段からこのような会見をしていれば良かったのに、との声多数ですが同感。)

 

(了)

三浦瑠麗氏の徴兵制平和論は雑

三浦瑠麗氏の主張「日本に平和のための徴兵制を」が、ハッシュタグ #Amazonプライム解約運動 で改めて話題に。氏の主張はそれほど特異ではないが雑に思える。(最終更新 8/20)

 

 

三浦瑠麗氏の主張

まず、これを先に読むと、そう違和感ないのではないか(2019年)。シビリアンコントロールなどの表現は色々不適切と思うが。

「反論や批判を待っています」 三浦瑠麗が日本に徴兵制を提案する理由 | 文春オンライン

 

良く引用され批判されているのがこちら。長いが趣旨は上記とほぼ同じだ(2014年)。

三浦瑠麗「日本に平和のための徴兵制を」 | 文春オンライン

 

2020年7月にAmazonプライムのCMに三浦氏が起用され、解約運動発生後にCM削除された。

三浦瑠麗氏CM削除、「#Amazonプライム解約運動」との関係は? 会社側に聞いたが...: J-CAST ニュース【全文表示】

 

民主主義との関係

歴史的に民主主義は主体的な兵士が獲得したのは事実だ。

  1. 古代は君主による傭兵(戦時の用役も含む)が普通だった。
  2. 古代ギリシア/古代ローマ市民軍が民主主義の基礎になった(広くはゲルマン民族アメリカ原住民などの部族共同体も)。
  3. しかし中世は騎士/武家の軍事独占で長い身分制社会に。
  4. フランス革命市民参加の常備軍と近代国家が確立した。
  5. 2度の世界大戦で空前の徴兵/動員、後に民主化/男女平等の進展。
  6. しかし分業進展/兵器高度化/反対運動などで大多数は志願制に移行。

 

こう見ると「徴兵制=民主主義」論自体は、それほど突飛ではない。ただし2度の大戦は総力戦となり軍だけでなく経済力自体が国力となった。現在のアメリカ合衆国や中国も、経済力を背景にした政治/軍事/文化力で、既に兵士や徴兵だけの話ではない。

 

三浦氏の主張の問題点

三浦氏の論理は雑なので、必要以上の反発を受けるのではないか。

  • 三浦氏が言いたいのは徴兵制(兵士募集が志願でなく徴用)より国民皆兵(国民主体の軍)では。西ドイツで「軍の民主化には一般市民の参加が必要」と徴兵制を主張した例はある。しかし旧日本軍や旧ロシア帝国軍も徴兵制で「徴兵制なら民主的になる」とは到底言えない。重要なのは軍組織自体が全体主義的か民主的(軍事命令は絶対でも議論/意見保留/監査制度など)で、募集の方法(徴兵)ではないだろう。
  • 三浦氏は「リベラルが戦争推進、保守派は反対」説も主張している。これはベトナム戦争時に保守派がリベラル攻撃に使用した説(世界革命指向の元トロツキストが世界民主化戦争を推進した、など)で、保守派伝統のモンロー主義も受け継いでいるが、三浦氏自身も例示の湾岸戦争イラク戦争共和党政権(ブッシュ親子)で論理が合わない。そもそも戦争開始は政治イデオロギー以上に国際情勢や強いリーダー像にもよるだろう。
  • 特に批判の多い「血のコスト」だが、要は「民衆は軍を犠牲にしたがるが、家族や知人も参加の軍なら無理な戦争は主張しないのでは」程度の意味らしい。しかし第1次世界大戦の欧州各国国民の熱狂的戦争支持も、日比谷暴動や日中戦争泥沼化のマスコミや政府方針なども、全て徴兵制時代だ。「徴兵制なら国民が好戦的にならない」との主張は根拠がない
  • 上述の2019年の発言も、「シビリアンコントロールが強すぎると戦争になる」との趣旨で、「軍人は平和志向、国民は好戦的」との発想は一貫している。しかしシビリアンコントロールは究極的には「国民の代表/文民/最高指揮官である首相が軍人を統制する」ことだ。三浦氏の発想では「首相の指揮を軍が守らない方が平和」で、これでは軍部独走/軍閥で民主主義の真逆だ。また自衛隊が保身で命令拒否する事も平和との主張なら、逆に自衛隊侮辱だろう。
  • 思想系の学者が新規な発想や用語を使うのも一般的だが、「平和のための徴兵制」は細部が雑で、保守思想を時代や経緯を無視して断片的に寄せ集めて都合よく使おうとするから墓穴に思える。
  • 仮にまともな徴兵論なら、現代では良心的兵役拒否(非軍事の活動強制)も併せて論じないと、自由主義(選択の自由と公共の義務の両立)の立場では意味が無いとも思う。

 

(了)

 

 

広島アニメフェスの最後

広島国際アニメーション・フェスティバルは2020年の第18回を新型コロナ対応でオンライン開催中ですが、次回2022年より芸術祭に一新、更に従来体制は今回が最後と報道された。私は数回ほど個人参加しただけですが、あれこれ書いてみたい。(最終更新 8/23)

  

 

今年が「最後」との報道

広島市の発表は以下の2段階。

  1. 2020年1月 総合文化芸術イベントへの一新を発表
  2. 2020年8月 第1回以来の体制(共催 ASIFA-JAPAN共催、フェスティバルディレクター 木下小夜子さん)は今回が最後。以後は地元団体による開催に。

 

8月15日に以下記事が掲載された。正確には次回の形式は未定なので 「最後」はカッコ書きになっている。無料登録で全文が読めます。

 

同日の朝日新聞 夕刊 2面はこちら

 

記事は当フェスを実現し継続させたディレクターの木下小夜子さんへのインタビューが中心なこともあり「根耳に水。残念です。」が中心のトーンになっている。

 

またアニメーション研究家の五味洋子さんツイートによる広島市サイトの資料「総合文化芸術イベント基本計画策定支援業務 基本仕様書」はこちら。

 

 ここでは従来イベントの中心である「コンペティションの充実強化」と、長編や音楽を含めた拡大、市民参加(敷居を下げる)、多くの人の呼び込み(経済効果)などが併記されている。(お役所文書は併記が多いし問題なのは優先順位だが。)

 

なお第18回広島フェスのサイトはこちら。過去大会の受賞記録もある。

広島国際アニメーションフェスティバル HIROSHIMA 2020 [2020.8.20(木)-24(月)]

 

広島アニメフェスとは

1985年の「被爆40周年」を契機に広島市などが主催、国際アニメーションフィルム協会日本支部(ASIFA-JAPAN)が共催。ASIFA公認の世界4大アニメーション祭アヌシー、オタワー、ザグレブ、広島)の1つ。ほぼ隔年開催。

 

このフェス開催に駆け回ったのは木下小夜子さん。過去に夫の木下蓮三氏(故人)と短編アニメ「ピカドン」を製作して広島に。中心イベントのコンペティションには、グランプリと並んでヒロシマ賞(平和のためのアニメーション)が設けられている。

 

会場のアステールプラザにいると、世界的に著名なアニメーション作家が歩いてたり、木下小夜子さんが縦横無尽に歩き回ってニコニコと歓待したり紹介したり話題を振ったり大活躍に見えた。失礼ながらディズニーランド盛り上げ役のミッキーマウスのようだ。

 

木下小夜子さんはASIFA会長 兼 ASIFA-JAPAN会長 兼 大会ディレクターだが、部屋の奥で座ってる事務局長ではなく、作家集団ASIFAとのコネクションと巨大イベントを回すバイタリティに圧倒される。ライフワークなのだろう。

 

私は朝から夕まで会場を回って、夜はお好み村がパターンだった。東京から旅費はかかるが、数日まとめて色々鑑賞できるので実はお得なイベントだ。(結婚後は広島出身の妻に、お好み村は観光客向けと叱られ毎晩広島市民球場に連行されたが。)

 

アートか一般向けか

これは第1回の直後から繰り返し言われている。

 

広島フェスの中心のコンペティションは、一般のテレビアニメや劇場版などの商業アニメではなく、短編中心のアートなアニメーションでファインアート(大衆芸術に対しての純粋芸術)とも。いわゆる「アニメ」と「アニメーション」の区別なら後者だ。

 

だから「アニメは子供向けなので市民が気軽に参加できると思って開催したら、一般人にはわからない芸術的作品など敷居が高くて当初歓迎の市民の熱意も下がった」との批判は常に聞こえた。

 

これに対して木下小夜子さんは「そいういう声も多かったが、続けていくことで、世界に認められたアートなイベントなんだという理解が徐々に広がったと思う」と話していたと思う。しかし今回遂にちゃぶ台返しされたのかも。

 

アニメ(に限らないが)大多数の商業系と少数派のアート系の分離対立?は根深い。よく見れば相互の影響や交流もあるのに。いわゆるアニメファン内でも昔からと思う。

 

個人的には、基本はテレビアニメだったが、学祭でNFB(カナダ映画庁)のマクラレンや「風」や「クラック!」を気に入って上映し、アニメーション'80とかアニメーション研究会連合などの自主制作アニメーションも観に行った。

 

どれも面白いから見るだけなのに、「自分はテレビアニメしか興味ない」とか、逆に「商業作品は敵だ」みたいに世界を分ける人、わざわざ他ジャンルを批判する人が結構多く思えた。時には大学同士や自主制作サークル間でも。壁を作りたがるのは、対抗心なのか、集団心理なのか、ただの細分化なのか。不思議だ。

 

知人のアニメ演出家はアニメスタジオで広島フェスに誘ってもほとんど来ないと言っていた。知人のアニメ研究家は毎年広島フェスを精力的に取材してはアニメージュに記事を書いてるが、どれだけ読まれているのだろう(昔アステールプラザ内で東大SF-Aメンバーをフランス語通訳に拉致してたけど)。新海監督は「君の名は。」で転向したと随分叩かれたと書いていた。

 

もちろん広島フェスも商業作品を無視してる訳でもなく、大会には色々なプログラムがある。子供向けの一般向け作品を別ホールで上映したり、小部屋での自主制作のワークショップなど。

 

 

また公式には言えないが口頭なら言える事はある。ILMスタッフ講演でのジュラシックパークのCGの裏話では、出演者帰国後に修正が入ったからCGスタッフが演技して顔だけCGで貼り付けたとか。

 

また通訳さんが「セル」や「FTP」を判らずILMスタッフにいちいち質問してしまい、通訳は各分野の知識も必要と痛感させられたのも現場リアルタイムならでは。テレワークでもメール、Web会議、チャット、電話は使い分ける。優先度は変わるが対面の利点はゼロにはならない。

 

しかし「アニメは子供向け」との思い込みによる文化摩擦も色々ある。

 

ごく普通に見える親子づれがコンペティションに入って来るのを見かけると、多分期待に沿えないなぁ申し訳ないような気持になる。逆に私が子供を連れて入った年は、通り過ぎる人が何組も「このイベントは子供向けではないよね」と聞こえるように話して、あー教えてくれてるんだありがとうと思ったりの逆パターンも。

 

また「アニメのイベントだからみんなで出品しよう」と学校等で多数の集団習作を送り付けて国際審査員が延々と素人映像を見させられるのも問題となったようだ。中にはダイヤの原石があるかもと思いながらも、自分の知人以外の作った素人映像を見続ける苦痛は経験者以外にはわからないのかもしれない。

 

「外国人を見たら英語で話しかけましょう」と同じで、基本は良い事でも集団でやると迷惑行為になってしまう。(審査方法も徐々に改善されたようですが。)

 

今後に注目

結局アートなど特化型イベントの継続にはメディチ家みたいな「金は出すが口は出さない」都合の良いパトロン的な理解が必要だけど、民主主義では政治家や市も身近な一般市民の声を無視しずらいのも事実と思う。

 

私は広島市は、こんな分野限定のハイレベルな国際イベントを長年主催して、凄いものだとずっと思ってきた。

 

(良い意味での)権威ある賞は一朝一夕には作れない。信頼実績がなければ参加も増えない。しかし信頼喪失は築城3年落城1日。そして権限は市にある。

 

2年後の組織は未定だが、仮にコンペティション従来品質を保つにはやはりASIFAとの連携は必須に思える。仮に単純な市民参加なら良くある地方イベントになってしまうのでは。

 

海外や東京から有名アーティストを呼んで一時的な目玉にする以外には、築き上げた国際的評判が消えてしまえば経済効果も果たして出るものだろうか、と心配になってくる。(行政主体のイベントは方向性散漫で取らぬ狸の皮算用に終わった例が多いと懸念する。)

 

一般論として、適時見直す事自体は良い事だ。変化も必要だ。ただの旧守やノスタルジーでは未来が無い。世代交代も必要かも。本気で変えるならば明確な方針とリーダーシップも必要だ。

 

ただし自分のコンピテンシー(優位分野)を見定めて選択集中する事は、どんな組織でも意外と難しい。あれこれ変革したいのも人情だが、下手すると「支配権奪還、人民参加」という名の文化大革命(文化破壊)かも。

 

全国や世界の都市の中で、広島市が既に持っている優位点は何なのか。それを殺さず伸ばすにはどうすべきなのか。

 

建設的な方向に進むのか、今後に注目したい。

 

追加情報

8/16 朝日新聞の「小原篤のアニマゲ丼」に、前日の記事の詳細版を掲示。これも同じ無料会員登録で読めます。

www.asahi.com

 

上記アニマゲ丼を読むと広島市の方針は以下かと。

  • アニメ祭は一般市民にとって敷居が低いとは言えなかった
  • 音楽や長編を含め、市民に開かれ、もっと気軽に参加できるイベントに
  • プログラムは地元団体が作る、業者委託はありうる(ASIFA共催はNG)

 

行政ガバナンス的にはわかりますが、やはり以下に思えます。

  • 良くある地方都市文化祭に変質の恐れ
  • 国際アニメフェスは実質終了、または別都市?

 

8/16 自主制作出身でもある片淵監督のツイート。もはや過去形で書かれている...

 

8/16 アニドウなみきたかしさんのツイート。

 

8/17 広島市が地元団体として想定のNPO広島アニメーションシティのさとたえ/まつうらたえこさんのツイート。

 

8/19 五味洋子さんのツイートと記事。

 

(参考)1月の「一新」発表

以下は上述の、2020年1月の「広島国際アニメフェスから芸術祭への一新」の発表と、その記事です。

 

2020年1月4日 中国新聞。無料登録で全文が読めます。

www.chugoku-np.co.jp

 

上記の記事には、2019年9月の市議会一般質問で「短編アニメの芸術性は高いが、幅広い層への浸透が困難で認知度が低い。インバウンド促進や産業創出につながる内容に見直すべきだ」との声

 

しかし常識的に見れば、前年9月の一般質問から1月の「一新」発表は短すぎる。内部的に方針を固めたうえで、形を整えるために議会の質問をお膳立てしたと見るのが妥当だろう。

 

そして木下小夜子さんは「アニメ業界から信頼され、広島の誇りとなる映画祭に育ってきた。近く臨時総会を開き、なぜ見直すのか、市から説明を聞いた上で今後の対応を協議したい」との発言が書かれている。

 

しかし上記は結局、8月の朝日新聞記事まで(少なくとも新体制の)話は聞けなかった事になる。普通に考えれば、市が相手からの巻き返しや混乱を避けるために中途半端な交渉は避けて、内部で方針を固めて外部には漏らさず、一気に「もう決めた事だ」と「共催切り」をした形と思う。(ビジネス界でも強いパートナーを切る際には良くある手法と思う。)

 

そして上記の中国新聞報道を受けてのアニメーション・ビジネスジャーナルの記事。総合芸術祭が浮上した背景と、文化庁も含めた今後の映画祭のありかたが問われるとしている。現在でもその通りではと思う。

animationbusiness.info

  

(参考)広島市サイトには以下もあります。

広島市の「市政へのご意見・ご要望」

 

2020/9/11 続編を書きました。

広島アニメフェスは今年で打ち切り - らびっとブログ

 

 

(了)

半沢直樹 3話の最新ITセキュリティ

8月2日放映の「半沢直樹 3話」のITセキュリティがネットで突っ込み多発だが、IT最新セキュリティの観点から作品を擁護したい。

 

 パスワード誤入力3回アウトなのにブルート・フォース・アタック?

「パスワードを3回間違えたらアウト」のセリフの直後で、ブルート・フォース・アタック(辞書攻撃などの総当たり攻撃、つまり大量のパスワード入力試行)できてるのがおかしい、との指摘がある。

 

セキュリティの高いシステムではパスワード誤入力の回数制限と超過時のロックなどは基本だ(銀行ATMとか)。ブルートは乱暴との意味で「ポパイ」のブルートが有名だ(世代がばれる)。

 

しかし最近の多くの金融機関は不正検知システムを併用しており、パスワード入力速度など入力者の振る舞いパターンをAI分析して、本人/別人/ツールなどの判別が高確率で可能だ。

 

そこで「人間による入力は本来ルールで3回ロックさせるが、ツールによる入力は専門家によるものなので本来ルールを回避してツールからのアタックは許容する」とのセキュリティ・ポリシーを持つ企業ならば、説明もつくし問題ない。

 

バックドアを後から仕込む?

瀬名洋介(尾上松也)が「これからセントラル証券のクラウドバックドア仕込むよ!」と言う。

 

バックドアは通常、製造元が事前にこっそり仕込む「裏口」なので、侵入直前の操作をバックドアとは呼ばないし、バックドアを含む製品は不良品との批判がある。

 

しかしバックドアは悪意の他に管理者の緊急対応用(障害対応、法令上の犯罪調査など)もありうる。アメリカで司法当局のパスワード突破命令をアップルが拒否したのも、仮に最初から方法が存在して秘匿中なら広義のバックドアといえるだろう。

 

また単に一時的に設定を緩くしては他者の侵入も容易になるため、まずは自分だけ入れるバックドアをリアルタイムで(恐らくオンメモリの稼働中プロセスにパッチを当てて)仕込み、その後にバックドア経由で「安全に」侵入したと考えられる。

 

つまり瀬名は顧客ユーザーの安全を確保しながら侵入したと推測でき、さすがである。

 

半沢のパスワードが脆弱すぎ!

半沢のセリフ「英文字6文字のパスワードは”ZANSIN”(斬新)です!」に、いまどきアルファベットのみ6桁は甘すぎとの声が。

 

確かに従来は辞書攻撃対策で「j@Y#8s」など推測困難な大文字・小文字・数字・記号の混在が推奨されていた。

 

しかし2017年にアメリカ政府機関NISTが「複雑で覚えにくいパスワードの定期変更は、本人がメモを残したり変更パターンを作ってしまい却って危険なので、逆に覚えやすい一般用語が推奨」とし、日本の総務省も方向転換し、対応済のシステムも存在する。

  

"ZANSIN" は覚えやすい一般用語なので問題無い。

 

なお更にはハッカーの裏を書いて古典的な "PASSWORD" や、更に一部記号/数字化を加えた "P@SSW0RD" なら更に最強といえる。

 

(注)全て冗談です 念のため m(__)m

 

(追記)蛇足ですが念のため (^^;)

  1. 不正検知システムは通常パスワードポリシーと連動させないし、仮にしても強化すべきで、プロの攻撃を許容では真逆。
  2. バックドアは、もし無理やり弁護したらの話。
  3. NIST推奨は「一般用語の組み合わせでも良いので桁数増加」がメイン。

 

(了)

ディズニーの戦争宣伝アニメ

ディズニーの戦争プロパガンダ・アニメーション作品について。

 

 

第2次世界大戦は総力戦で各国で国策映画が作られたが、アメリカ合衆国のディズニー作品は数も多く質も高く、ディズニーお得意のドナルドなどの元気キャラクターと、魔女シーンなどで積み上げたダークな迫力描写が注目ポイントだ。

 

これらの多くは普通には市販や上映されず、昔はマニアな上映会か海外DVDだけでしたが、今はネット上で簡単に観ることができる。

 

「総統の顔」("Der Fuehrer's Face" 1943 約8分)

多分一番有名。これは政府発注の国策映画ではなく、普通のディズニー作品のドナルドダックシリーズだが日本では市販されていない。アカデミー賞受賞。

 

原題の一部ドイツ語風は「ガールズ und パンツァー」と同じだ。中身はナチス・ドイツ世界のドナルドで、ステレオタイプなキャラ(日本人は細目、眼鏡、出っ歯)や、「ハイル・ヒトラー、ハイル・ヒロヒト、ハイル・ムッソリーニ」など枢軸国への揶揄だらけだが、前半はコメディ調、後半は更に漫画チックな悪夢に発展、そしてオチという当時のディズニー短編アニメーションに良くある基本展開だ。

 

ただ、やんちゃキャラのドナルドがやられっぱなしで全体に暗く、すっきりしない。ベルトコンベアーは動きの面白さもあるけどチャップリンの「モダン・タイムス」同様に当時の典型的な工場労働者イメージなのだろう。

 

(HDだけど字幕はフランス語)

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空軍力の勝利("Victory Throuth Air Power" 1943 約66分)

これは「総統の顔」とは逆に、キャラクターものではなくリアル風な迫力満点だ。

 

原作本を元に実写・アニメ併用で、大規模な爆撃機による日本への戦略爆撃の必要性を訴えている。

 

本編は1時間6分だが、以下のアニメパート短縮版だけでも迫力だ。最初のアラスカからの夜間出撃シーンはフライシャーのスーパーマンシリーズかと思うリアルさ。コクピットから遠くに見えてくる白い(たぶん)富士山も美しい。

 

そして上空からの爆撃先は都市にしか見えないのに地上の破壊シーンは軍事関係しか描かれない。ラストはアジア諸国に触手を延ばし剣を突き刺している巨大な蛸(日本)アメリカを象徴するハクトウワシが上空から繰り返し襲って退治すると、アジアに色が戻り、(本編では)星条旗アメリカ国歌で終わる。

 

色々な点で都合よく、ラストは有無を言わさぬ迫力で愛国的に終わり、良くも悪くもこれぞ戦争プロパガンダな作品と思う。

 

(アニメ中心の短縮版 約4分)

www.youtube.com

 

(本編 約66分)

www.youtube.com

 

余談だが日本の住宅地を含む無差別(絨毯)爆撃は国際法違反ではないかとの議論は当初からアメリカにもあり、しかし日本は家内制手工業で民家も軍需工場との理屈が作られ、またこの作戦を推進したカーチス・ルメイは戦後に航空自衛隊育成に貢献として日本から勲章を授与された。

  

理性と感情("Reason and Emotion" 約9分)

これもなかなかだ。

 

頭の中に理性と感情が住んでいる。ところがヒトラー演説は恐怖・共感・誇り・憎悪を煽って、感情だけの野蛮なドイツ兵にしてしまう。

 

しかし理性と感情は役割を持って共存すべきで、その人物とはアメリ爆撃機パイロットで、その大編隊と星条旗で終わる。

 

ドイツ兵は野蛮でアメリカ兵は理想的人格なのだ。延々と合理的分析の話をしながら、最後はヘイト的な感動で締める。

 

これは実は戦争プロパガンダに限らず、名作の基本パターンなのが怖い(バトルもので合理風に進めて、最後はいきなり根性スーパーパワーで感動とか)。

 

www.youtube.com

 

おまけ

ネット検索でこんな論文を発見。以下が載っておりお勧めかと。

  • ディズニーが国策映画を作るに至った背景
  • ドナルドが多く、ミッキー等は少ない理由
  • ミッキーは悪者ネズミから優等生へ 

第二次世界大戦とディズニー

 

 また以下も有名ですが次の機会に。 

(ディズニー)

  • 新しい精神 (1942) - 戦争のためのドナルドの納税促進
  • 1943年の精神 (1943) - 上記の続編
  • 死への教育 (1943) - ヒトラーユーゲントへの批判

 

(フライシャー)

 

(日本)

 

(了)

アニメ「リズと青い鳥」

劇場アニメ「リズと青い鳥」(2018年)は「響け! ユーフォニアム」シリーズ(TV 1,2期、劇場版 1,2)のスピンオフ作品で、無口なみぞれと良く喋る希美(のぞみ)の2人を描いた映画的な佳作だった。

 

U-NEXTで2か月前の別料金から「見放題」(標準料金のみ)になってたので観た(我ながらせこい)

 

ユーフォ」は吹奏部という珍しい舞台とアニメでのリアルな演奏描写で話題になったが、実は学園スポーツもの王道で、経験者の主人公が入部、そこへ鬼監督登場、割れる仲間、実は複雑な人間関係、過去や想いですれ違い、でも最後は大会に一致団結、ハイライトシーンは音楽で盛り上げ、という判り易い青春群像ものが背骨だった。

アニメ「響け!ユーフォニアム」1, 2期の感想 - らびっとブログ

 

「リズ」は違う。

 

宣伝画像も地味だが中身も地味。極論すると女子高生2名だけの全編百合、何日か練習してるだけ、事件は何も起きない、大きな変化すらない、最後の大会もない。「なにこれ」と思う人は多いと思う。

liz-bluebird.com

 

 

でも冒頭の20分間がもう圧巻だ。

 

カラフルで水彩風の絵本パートでの、暖色系のリズと赤いアクセントのある青い鳥。

 

直後の対比的にくすんだ色調のシャープな現実パートで、3年生カラーの水色の中に瞳の中の赤がアクセントなのぞみ。

 

そしてただ校門から部室へ登るだけの主人公2人の、足元アップでの微妙な感情描写、ハンディカメラ撮影風の画面揺らしフォーカス(背景や前景のピンボケ)の多用、露光過多のような自然な明るさなどが、これでもかこれでもかの連続波状攻撃で観客を引き込む。

 

そして頻度は変わるがこれらは全編ちゃんと続いて統一感。

 

画面揺らしやフォーカスはハルヒの God Knows! でも効果的だったが、「リズ」では頻度や細かさがパワーアップしてる。もはや特殊効果というより標準効果か。

涼宮ハルヒの憂鬱 God Knows!

 

京都アニメーションは、最初はハルヒのGod Knows! やらきすた OPなど特定パートがオタク的に評判になり、次にけいおん! で生活感ある作画とシリーズ全体の安定品質が更に評価されたと思うけど、この「リズ」はアニメと実写の境界的な描写をギリギリに、でも単なる「リアル風な絵」ではなく「絵」を基本にした、情感を丁寧に伝える1つの到達点かと。もはや映画だ(映画だけど)

 

同じシリーズ内でファンのイメージも守りながら、登場人物によって世界の描き方(演出)自体が大きく違うというのは、チャレンジングと思う。更に発展できそう。

 

細かい話では、ちょっと昔のカルピス劇場(世界名作劇場)みたいな絵本パートでリズのハンカチが風で空に舞い上がると、青い少女が思わず飛ぼうとする足元のアップ(これまた足元だ)。これだけで十分でうまい。

 

ただハイライトシーンと思われる最後の練習シーンは、画面揺らしやフォーカスの総動員ながら無理に盛り上げてないのがいいけど、そのせいでちょっと盛り上がらない(どっちだ!)。ここは悩ましい。趣味が判れそうだ。(実はフルートとオーボエの変化がさっぱり聞き分けられない自分が悪い気もする。)

 

そしてラスト。2人の会話のすれ違いが、やっぱりずっとズレたまま、でも少し変化している。多分そうして続いていくのだろう。それだけなのがまたリアルだし納得感。

 

従来手法を丁寧にリファインしていった形での京都アニメーションの、もはやアニメというより1つの映像作品に思うのでした(アニメだけど)

 

(了)

嘱託殺人/安楽死/優生思想とは

2020年7月23日に、医師2名が嘱託殺人(本人の自死希望による殺害)で逮捕された。当初は安楽死問題と思えたが、医師の優生思想発言など特異な事件となった。ツイートした話を整理した。

 

今回の事件

  • 難病で八王子の自宅で療養中の女性が医師2名の投薬で死亡した
  • 女性は安楽死を希望していた
  • 医師は主治医でなくSNSで知り合い金銭受領、家族・主治医に伝えず
  • 医師は従来より優生思想的な発言を繰り返していた
  • 京都府警は容体安定など安楽死判例要件は満たさず、金銭目的の嘱託殺人と判断して立件した

 

(事件の経緯)

難病患者に薬物投与 嘱託殺人容疑で医師2人逮捕―SNSで知り合ったか・京都府警:時事ドットコム

 

(医師の優生思想発言?)

「高齢者を枯らす技術」逮捕の医師がブログに死生観 - 社会 : 日刊スポーツ

 

(医師の著作?)

Amazon.co.jp: 扱いに困った高齢者を「枯らす」技術: 誰も教えなかった、病院での枯らし方 eBook: 山本直樹, mhlworz: Kindleストア

 

安楽死議論と今回の事件の共通点と相違点)

ALS患者の嘱託殺人容疑で逮捕の医師 SNS通じて知り合ったか | NHKニュース

 

嘱託殺人とは

依頼を受けて殺人すること。日本の刑法では「同意殺人罪」の一部で、通常の殺人罪より刑が軽い(広義の殺人罪殺人罪減刑類型などと呼ばれる)。なお懲役(労働あり)より禁錮(労働なし)の方が軽い。

 

この 202条は以下を含むが、刑は同じなので分類はあまり意味が無い。なお自殺自体は不可罰だが、他者の自殺への関与は犯罪になる。

 

安楽死とは

以下は区別される。

  1. 消極的安楽死(苦痛を伴う治療をしない、不作為)
  2. 積極的安楽死(投薬などで死亡させる、作為)←今回の医師側主張?

安楽死と自殺幇助の違い - 日本臨床倫理学会

 

日本では、本人や家族の依頼でも、医師や看護師が殺人罪嘱託殺人罪になる可能性がある。

 

日本の判例では積極的安楽死 4要件東海大病院事件の1995年 横浜地裁判決)がある。

  1. 患者の耐えがたい肉体的苦痛(耐えがたい苦痛の発生後)
  2. 生命の短縮を承諾する患者の明確な意思表示(本人同意が必須)
  3. 死が避けられず死期が迫っている(終末医療のみ)
  4. 苦痛の除去などのため方法を尽くし、他に代替手段がない(緩和策無し)

つまり、本人が意思表示できない場合や、改善の可能性が僅かでもある場合は認められない。また4要件を満たしても、現在の判例であり、今後の個別の裁判も同じ判決になる保証は無い。(医療者が殺人罪になる恐れは残っている。) 

「積極的安楽死」の4要件とは 地裁判決で厳格に設定|社会|地域のニュース|京都新聞

 

日本尊厳死協会は、終末医療での事前署名による尊厳死の法制化を求めている。(現状は病院に断られる場合あり。安楽死ではない。)

目的 | 公益財団法人 日本尊厳死協会

 

ただし安楽死の議論では、「本人の意思」でも実際には周囲から強制されている場合もあり、また本音では優生思想から安楽死に賛成している立場もある。このためスイス等では厳格な要件で法制化している。 

 

日本の法制化議論は進んでいない。このため患者側、病院側とも権利義務は不明確で、個々の現場の判断が続いている。

 

優生思想とは

現代の安楽死議論と、優生思想による高齢者処分は、発想の根本が違う。

  • 安楽死(現在の議論は、本人の自死選択権)
  • 優生思想(社会が劣等者とみなした者を除去すべきとの思想)

 

優生思想はナチスのT4作戦、日本の優生保護法が有名だ。T4作戦では「優秀なドイツ民族」のために障害者数万人以上をガス室等で組織的殺害し、後のユダヤ人虐殺のリハーサルとなった。また戦後も一部継続された。 

T4作戦 - Wikipedia

  

 スイス等の事例

スイス等は厳格な要件で安楽死を法制化しており、日本からの渡航者もいる。本人意思が必須で、団体や医師によるチェックがある。目的は本人保護(本当に本人意思か)と医療側保護(殺人罪にしない)。 

スイスの安楽死 - SWI swissinfo.ch

 

オランダとベルギーにおける安楽死

 

(了)

 

パソコン通信からSNSまで

2年前に某大学サークルの創立40周年企画に参加したら、連絡手段が60代から現役生まで郵送/メール/LINE/ツイッターと見事に混在したのが面白かったので色々振り返ってみたい。個人的な話からPC、通信規格、映画など混在なのはご容赦。

 

 

電子メール

大型コンピュータを使用した電子メール自体は1960年代から色々あり、私は1980年代の外資系コンピュータ会社入社から社内メール(メインフレーム上で稼働するVM/CMSベースのODPS/PROFS)を使った(ITという言葉は1990年代後半から)。

 

入社研修までキーボードに触ったことも無かった文系人間なので実技は遅くて泣いた。でも当時は他には長距離が劇高な電話/FAXか(IP電話はまだ無い)、郵送/社内便なので、帰宅前に海外に出したメールの返信が翌朝に届くのは便利だった。また自分はユーザー企業に常駐が大半なので、上司との日常の連絡もメールで済んだ。

 

日本語も使えたが、日本語(DBCS)と英語(SBCS)の間には特殊文字(Shift-in / Shift-Out)が自動挿入され、自動改行はできなかった(日本語3270/5250の仕様。後にGUIフロントエンド化で改善)。

 

当時は「電子メール」と言わないと郵送と誤解された。電子メールが普及してくると郵送を「紙のメール」や「郵政省メール」などと呼んだ(郵便局の民営化前だ)。昔はエレキギターと呼んでいたのに、最近は元のギターをアコースティックギターというようなものか。

 

1990年代後半は、某スポーツイベント関係で長野のオフィスのOA化(死語?)に参加したけれど、メールボックスは朝だけ見る、ある課長は自分宛メールを部下に印刷させて机上の「未処理」箱から読む、2~3行の簡単な連絡をワープロで書いてメール添付で送信する、逆にメール本文をブランク詰めの嵐でセンタリングや段落字下げなどを作り込む、など「郵便文化」だった。文化は根強いのだ。

 

そもそも当時は世間でPCで仕事すると上司が「遊んでる」と叱ったり、逆に大手コンピュータ会社の社員は「PCなんかオモチャだ」(メインフレーム至上主義)の文化ギャップが激しく、両方の文化がそこそこわかるだけに複雑だった。

 

ところで会社で「電話しかできない中年」と「スクショしかできない若者」は根が同じ説を聞いた。本来は道具は状況に応じて使い分ければ良く、自分世代のスタイル押し付けは発想が同じ、との指摘だ。必要なのは柔軟性ですね。

 

パソコン通信草の根BBS

1988年にサークル後輩のhironon氏が、自主制作アニメーションの情報交換の場として「早ア同 まきちゃんねっと」を立ち上げて誘われたのでユーザー参加した。

 

当時はアニメーション80や各大学など色々な上映会があったが、情報は各上映会場などの紙のちらしか、貴重な情報誌「ぴあ」(月刊→隔週→週刊)で、本当に予定通り開催されるかは当日行かないとわからないし、かといって主催者の個人宅電話に気軽に掛けるのはためらわれた。

 

 前年に入手したIBM JX(IBM PC Jrの日本仕様PC)にモデムと通信ソフト(日本語ProComm)を買い足して電話回線でダイヤルアップ接続。電話料金の安い夜間を待ってログインして、準備したコマンドで会議室を巡回してログにダウンロードして、その後に読んで発言を準備する流れだ。

 

もちろん接続先のホスト側も個人のPC(PC-9801、確かWWIV)と家庭電話回線だ(確か受信専用の2回線目は安く引けた)。ホスト側が別の通信中(お話中)ならば眠い中に手動リダイヤルを繰り返すしかない。寝ぼけて最後に回線切断してない事に翌朝気づくと真っ青だし、接続を戻し忘れると家族から後で「今日は電話が使えなかった」と怒られたり大変だった。

 

最初に買ったモデムの通信速度は1200bpsだったので、2400bps、4800bpsが普及した時にはその「高速」ダウンロードに驚愕した。1200bpsではダウンロード中に掲示板の文章がほぼ読めたのだ(企業でも高価な業務用モデムで9600bpsも主流な時代だ)。

 

この友人のBBSは後にお絵描き(ドローイング)の、特に Woody-Rinn さんによる MAKI/MAG フォーマットの普及拠点の1つに発展して、更に各分家BBSと区別して「本家まぐろBBS」となったが、このあたりは以下リンク先や書籍をどうぞ。(なお私は色々迷惑はかけたけど全く何も貢献してません。)

MAGフォーマット - Wikipedia

まぐろのすべて―MAGフォーマット開発秘話 (SOFTBANK BOOKS) | まぐろBBS |本 | 通販 | Amazon

 

パソコン通信(商用BBS)

世界ではCompuServeやAOL、日本では1986年からNECPC-VAN(→BIGLOBE)、富士通OASYS通信サービス(→NIFTY SERVE)、日経MIX、そして後発のPeople(日本IBM東芝など出遅れ組の弱者連合)などがあった。

 

日経MIXは実名中心で博識な業界人や有名人が多い、BIGLOBEはパソコン界のガリバーのNECなので各分野で幅広い、NIFTYは提携したCompu Serveと同様のフォーラムと呼ばれる各分野の会議室を充実させて盛り上がり、Peopleは閑散としてた印象だ。

 

当時の有名人にはプログラマーで「ざべ」こと「THE BASIC」ライターで日経mix常駐の中村正三郎(show)さんもいて「これからはインターネットだ、BBSの匿名文化とは違ってインターネットは実名の世界だ」とか、天下のマイクロソフト日本法人(MSKK)に公然と喧嘩を売るなど賑やかだった(私はFIBM来訪時にわざとボケレスを書いて、本人からレスを頂いて喜んでいた、すみません。)

 

私はNIFTYIBMフォーラム(FIBM) に良く入っていた。今の PC は Mac を除けばほぼ IBM PC互換で、「PC」という言葉自体が「IBM PC」発祥と言えるが、1990年までは超マイナーだった。

 

当時の日本のパソコン界は各社独自規格で、メーカーが違えば原則としてソフトウェアも周辺機器も動かない(正確には画面制御するソフトは全滅)。

 

16ビット以降ではガリバーはNEC PC-9801で、次いで富士通の FMシリーズやFM-Towns、ちょっとニッチなグラフィック重視のシャープ X68000、露骨に富裕層向けの Macintosh、家庭向けの MSX (8ビット)などで、IBM(互換機)系は 東芝 T3100/J3100、IBM JX、AX協議会か、外資系企業やマニアの個人輸入程度だった。

 

しかし1990年の DOS/V (どすぶい)登場から、1997年のNECの方向転換(PC-98NX)までに、IBM(互換機)が主流に逆転して、この期間に雑誌以外の貴重な情報源として FIBM も大盛況になった。

 

ところでNIFTYでは一般人のフォーラム管理者(シスオペ)が権限と収入を得るのが公然の秘密だった。FIBMではほぼ姿を見せないシスオペW氏の交代運動がユーザー内で盛り上がり、結局はバランス感覚もあって人望もあるライターのYanaKen氏に交代したのは良かったと思う。(私は「月刊OUT」で初めて知った。DOS/Vの記事も良く書かれていた。)

 

あれYanaKenさんのサイトを発見した。

YanaKen's history(年譜)

 

商用BBSでコミュニティの維持発展のために日々活躍する有難いユーザーは、純粋なボランティアか、何らかの報酬もアリか、それは非公開(守秘義務)なのかは、オープンソースやその周辺ビジネスを含めて古くて新しい問題と思う。テナント業やイベント業みたいなもので、優秀で熱心なシスオペさんが集まって活性化し続けてくれないと、投資だけしてもビジネス継続できないのだ。そしてネットでは特色が無ければ1番手以外が生き残るのも困難だ。コミュニティとは人間社会そのものなので難しい。

 

余談だが日本でのパソコン通信」と言う言葉は好きでない。パソコンはデバイスの1つにすぎず、高価な大型コンピュータでも、当時の通信機能付きワープロ専用機でも良い。正確には「コンピュータ通信」。「電子書籍」を「パソコン書籍」とは言わないのと同じだ。AOL は「オンラインサービス」と呼んでいた。

 

オンラインサービス「AOL」が4月から日本で正式サービス開始

 

インターネットの前と後

インターネット普及前の話。

 

上述のパソコン通信は「非同期・無手順」の原始的な通信方法だ。パソコンなどのシリアルポート(RS232C)でモデム同士で接続後は、単に文字(コマンドやデータ)を流し込む、いわゆる「垂れ流し」だ。画像ファイルも文字に変換してから送る。日本では変換ツールの ish と 圧縮ツールの lzh の組み合わせが良く使われた。でもこの通信方法は今も制御系などでは良く使われている。

 

これに対して業務用の画面(パネル)も使える信頼性ある通信手順は元々は各大手メーカー独自仕様で、業務のオンライン化が進む中で IBM の SNA (System Network Architecture)を筆頭に、DEC の DNA (DECnet)、富士通の FNA、日立の HNA、NEC の DCNA などがデファクトスタンダードを目指して競争した。これらは中央のホストコンピュータが、全ての通信や端末の集中管理(セッション管理、ステート管理、暗号化など)を行って、通信の世界だけでセキュリティ(端末ごとの権限設定)や性能確保(帯域制限、同時セッション数、優先度など)もできたりする。昔のSF映画に出てくる中央集権的な「マザーコンピュータ」のイメージ元だ。

 

後に ISO が国際標準化規格の OSI を提唱したが普及せず、規格比較用に「OSI参照モデルの7層レイヤー」の概念が残った形だ(ただし各規格は別物なので「OSI参照モデルのXX層に相当」というのは「まぁ例えればこの範囲の機能です」程度の意味だ。)

 

これらは端末側にも各社独自の高価な通信カードやソフトウェア、ホスト側にも専用の通信装置が必要だった。しかも各規格の実装は時期や製品によっても異なり、実は同じ規格なら必ず繋がる訳でもなく、企業ではネットワーク構築自体が一大プロジェクトだった。

 

これら独自規格に対して、インターネットは分散系出身で後発の EthernetTCP/IP がベースで「信頼性が低い、管理困難、保証されない」と随分言われていた。それは事実だが、色々なツールや技術を組み合わせて補い成長してしまったのが現実と思う(IBM PC互換機の世界と似ている)。

 

1990年代後半からインターネットが商用解放されて一般にも普及すると、まずは商用パソコン通信間でもインターネット経由で転送ができるようになり、次第に個人がインターネットのプロバイダ(ISP)に入る事が普通になってきた。

 

当時の人気映画「ユー・ガット・メール」(1998年、トム・ハンクスメグ・ライアン)は、その題名(You've Got Mail)は当時のアメリカのパソコン通信大手の AOL でメール受信時にパソコンが音声通知するセリフだ。

 

AOLはGUI対応の専用ソフトを売りに、ダイヤルアップの BBS から ISP に進み、BIGLOBE@nifty も同じ方向に向かい、日経mixは終了した。

 

Windows95 

日本でよく聞くWindows95フィーバーでインターネット元年」は日本の特殊事情だ。世界的には Windows 3.1 が "It's Cool!" と評判になり、1992年にインターネット接続機能標準版の Windows 3.1 for Workgroup (WFW) が出て普及した。Windows95 は、MS-DOSとの統合とGUIの改良が中心だ。

 

日本ではこのWFWが発売されなかったので、1995年の Windows 95 が世界から遅れて「初のネットワーク機能標準版」と話題になった。もちろん以前からも各社のネットワーク用ドライバを組み合わせて接続できたが、MS-DOSの知識が必要で、日本語環境ではコンベンショナルメモリ等の制約も厳しかった。

 

WFW日本語版が出なかった理由は不明だが、恐らくは当時の日本はネットワーク普及後進国で(社内LANも珍しかった)、多数の日本独自仕様パソコンへの移植や保守の手間と見合わなかったからかと思う。

 

iモード

モバイルのネット接続も各時代に色々あったが、日本では1999年のiモードで急拡大した。ただインタビューなどで良く聞くiモードはオープンなので普及した」は「勝てば官軍」なので一言。

 

当時はモバイル用の国際規格にHDML(Handheld Device Markup Language)があり、HTML類似だがモバイル端末用の複数画面などをサポートしていた。それに対して「HTTP/HTML」をほぼそのまま持ち込んだNTTドコモ独自規格がiモードだ。

 

つまり iモードは当時は逆に独自仕様だったのだ。

 

ところで iモードの最初の広告塔は広末涼子。また i モードの次に、固定電話向けの Lモードが登場して、某銀行のLモード対応に関係したけど全く普及しなかった。

middle-edge.jp

 

フェイスブック

マーク・ザッカーバーグハーバード大在籍時に学生の交流用に作ったのが始まりで、それを描いた映画「ソーシャル・ネットワーク」(2010年)も学生のバカ騒ぎやギーク(技術オタク)な雰囲気が出てて面白いいし、確かに同級生を探したりは便利だ。

 

基本は「人単位のミニブログ」みたいなものかと思ってる。特に海外を含めて名刺代わりというか。

 

でも単に表札的に軽く使おうとすると、最近使ってないがどうしたとか、更新が少ないとページを削除するとかの「大きなお世話」メール攻撃やメッセージが多くて馴染めない。無料なので活性化を要求するのは当然ながら、うっとうしい。

 

ツイッター

若い人に聞くと「普段はツイッターでメールは滅多に見ない」人が結構いる。メールはもはや昔の郵送か小包か。まぁ色々なショップのメンバーになると営業メールが大量に着て普段見たくなくなるのはわかる(アドレス分ければいいのだけど)。

 

でもツイッターは従来のツールとパラダイムシフトがある気がする。

  1. パソコン通信会議室は「まずは場所(グループ)を探して入らないと始まらない」世界。現実社会のサークルに似ている。馴染めればいいが、途中で嫌になると、それまで築いた人間関係を捨てて抜けるか悩む。
  2. 逆にサイト(ブログ、フェイスブック)はホスト単位の世界だが、見る方は各サイトを巡回しないといけない。色々なツールはあるが面倒だ。そしてサイト側は読者の反応が余り見えない。SNS普及前のコミケの同人誌販売みたいだ。
  3. ツイッターは発信も受信も個人の世界だけど、読む側はタイムラインで仮想的にまとめて見られるし相互レスも簡単だ。会議室やサイトの「場」に対して、より仮想的なグループ(リレーショナルデータベースの検索結果の表のような)を毎回表示してる感じが、ヒエラルキーが低くアナーキーで、個単位なのがリベラリズムというか(フェイスブックも2011年からタイムラインを始めたけど)。

 

ただツイッター手軽だけどテキトー文化と思う。ツイートが時々見えない、翌日見えたり、通知も来たり来なかったり、同じトリガーで何回も通知されたり、とか日常茶飯事、全てがアメリカンワールドだ。

 

そして「つぶやく」フロー重視だから、情報蓄積(ストック)には向かない。検索やブックマークはできるが、単に過去履歴を辿るのは大変だ。

 

ただツイッター自体はただのお知らせ&気軽ツールに徹して、必要に応じてブログとかオンラインストレージとか別ツールを組み合わせる発想UNIXとかオープン系文化で、自前主義のデパート囲い込み文化でないのは正しいと思う。複数アカウントの切替もかなり楽だし。

 

そしてネット社会

私は会話より文字が好きで、IT関係のせいか功利主義なので、ネット社会自体は賛成だ。

 

お隣の韓国では、引越しの手続き(住民票、学校、電気水道、警察、年金など)がネットで1発でできるらしく羨ましい。アフリカでは電気も電話も未敷設の地域で、家のソーラパネルで充電するスマホ電子マネーの振込も普及している。遅れた世界ほど逆に最新にジャンプしやすく、過去のレガシーは資産から桎梏にもなってしまう。インフラだけでなく人間の文化として残る。

 

ネット投票の議論もあるが、なりすまし防止は認証システムの問題だし(オンラインバンキング、e-TAX)、本人の意思確保は郵送でも大差ない(日本でも在外投票、アメリカでは大半の州で郵送投票可、バーコード印刷済)と思う。つまり制度設計とシステム次第だ。

 

昔は「雲の上」だった漫画化や小説家などのクリエイターも、アクティブな方は多い。ファンとしては本当に嬉しいし、もちろん社交的な方もいると思う。しかし一方で「本人も営業する時代」とのプレッシャーも聞く。

 

昔の雑誌や書籍では「この仕事はこうだ」とか「私はあの作品や監督は嫌いだ」とか意見表明も多かったのに、今は炎上対策なのか周囲を片端から持ち上げてスマートに謙遜する「大人な」振る舞いが広まっていて、さすがだなぁとも思うが、ちょっと不気味にも感じる。

 

若者も含めて「ネットは誰でも発言できる民主的で自由な世界」が「日常も相互監視だから自粛世界」に転じるのは皮肉かも。悪いのは本人か大衆社会か。

 

表で自粛なので、匿名で発散する人もいそう。しかし人間なら丁寧な時も、放言する時もあるのが自然なのに、ネットは断片で評価され炎上しがちだ。ネットを通じた大衆社会集団主義、暴力性)の表面化で、その反発で過剰な個人主義(匿名主義、進歩主義忌避)もあるのかも。

 

つまりネットは昔も今も人間社会そのもので、便利な道具だがリテラシーは必要と思う。

 

 という訳で、シンプル好きとしてはあまりツールの手を広げたくはないが、使えばメリデメが見えてくるのも楽しい事ではあるのでした。

 

(了)

 

「カメラを止めるな! スピンオフ 『ハリウッド大作戦!』」

タイトルが長いがクレジット表示通りなので仕方ない(笑)

同作(2019年)は、前作 「カメラを止めるな!」(2017年)のスピンオフドラマとしてAmeba TV配信と限定劇場公開された。これも劇場は見損ねたので今回U-NEXTで観た。未見の方も多いと思うので前作以上にネタバレは最小限に書きたいが、ネタバレ無くすと書く事が無くなってしまうので困る。

 

前作のスタッフ・キャストがほぼ再結集。続編や新作というより、スポンサーのネスレ提供の前作ファン向けの同窓会的なプレゼント企画という感じだから、厳しいコメントは野暮かも。

 

こういうのは同じキャラやパターンを期待するファンも、新展開を期待するファンもいるのでバランスが難しいと思うけど、「全く同じじゃないか」という構成と、「でも重要なポイントがいくつか違う」の両面があり、どうにか両方クリアできたように思える。

 

なお前作は緻密な伏線回収の宝庫だったけど、当作は単純化して絞っている。こだわりたい人には物足りないが、メインテーマはシンプルになったのでは。「ハリウッド」がいくつかの意味を暗示している。

 

とはいえ、前作は見返すと再発見が楽しめたが、当作の前半のハリウッドサインは白すぎて詐欺っぽい(我ながら苦しい表現)。

 

最後に。前作では従来はヒロイン役(秋山ゆずき)と監督役(濱津隆之)がうまいと思っていたけど、前日に前作を見返したら実は娘役(真魚)がすごくうまい気がしてきた。そして本作を見たら確信に変わった。演技に見えない雰囲気だ。今後も期待したい。

 

映画「カメラを止めるな!」はワンカットと悪役が良い - らびっとブログ

 

(了)

映画「カメラを止めるな!」のワンカットと悪役評価

話題作「カメラを止めるな!」(2017年)は劇場で1回、テレビ録画で3回見たが、スピンオフの「ハリウッド大作戦」を観る前にとU-NEXTで見直した。公開当時はSNS時代なのにネタバレ防止がかなり守られて映画ファンのモラルも話題となった。

 

最初は既に評判が高まってからだが「冒頭37分はワンカット・ワンカメラ」だけの知識で観て、何故か静かな劇場で、監督が実は私怨で女優・男優に詰め寄るシーンは吹き出してしまった。

 

この作品は映画製作や業界モノに興味がある人には面白いと思う。でも現実から離れて美しい映像や感動ドラマを求める人には「なにこれ」かも。「面白さがわからない」という感想も結構あるけど、それでいいと思う。

 

まず冒頭37分は本来「違和感だらけの素人フィルムだ金返せ」と思わせて、後半で伏線回収(というか種明かし)する構成と思うのに、個人的にはワンカットが凄すぎて驚愕して、いまいちのれなくて困った。

  • もちろんB級ゾンビ映画は、特殊メイクとカット割りで持ってる低予算の代表格なので、「ゾンビ映画をワンカット・ワンシーン」は聞いただけで無謀だ。
  • そこでワイドショーの芸能人街歩きのように、絵になる地点は決めるけど後はカメラが単に役者に同伴する形と思っていた。
  • ところがいきなりハイライトシーンで個々のカット(?)が本格的、廃墟の特徴的な丸窓や天井や機械をうまく映す、カメラは室内別通路で並行移動、そして劇中劇とスタッフ視点の間の切替もスムーズ(監督がカメラの後ろに回り込むと劇中劇復活とか)など、37分間の撮り方を綿密に計算してたとしか思えない。
  • 更に後半は細い地下道や屋上階段で、スタッフ並走もできずカメラがこけたら全部取り直しで、無謀すぎ、バカなんじゃないの(ほめ言葉)と手に汗を握ってしまった。

 

そして後半のメイキングもどき。

  • よろしくでーす」は何回見ても本当にムカつく(これもほめ言葉)名セリフだ。
  • 多数のスタッフがカメラに映らないよう黒子として大活躍するのが目玉だ。
  • しかし何回見ても事故で参加できなかった2名(劇中劇の監督役とメイク役)は印象に残らない。もう少しキャラ立てても良かったのでは。(すみません顔を覚えられない人なので。)
  • 好きなシーンは主人公の監督がラストシーンの変更を迫られた時に娘の真央がそれを見つめるカット。他よりやや長めで、何も言わない、動きもしないが、制作者の情熱が親子間で初めて共有できた瞬間だ。主人公の「わ、わっかりました」の飲み込むようなセリフは社会人なら共感できるのでは。

 

最後に。2人のプロデューサーはもちろん「上の都合で現場に無理難題を押し付ける悪者役」だけど、社会人視点で見ると結構有能。何故かこの評価は少ないけど、色々に思えるのは深い。

  • イケメン・プロデューサーの古沢は、思わぬトラブルに直面しても、すぐに次善の判断をする。現場の手伝いはしない。実は実世界で一番困る上司は、判断を先送りしたり曖昧にしたり、逆に現場の手伝いを始めて本来の役割(ロール、決断)から逃げてしまうこと。特にテレビ生放送なら、職人の拘りより放映を守る事が優先だ。最後に放送中止に傾いたのも、良い手段が無ければ正しい判断だった。(強要されたにせよ)彼がOKを出したのでラストシーンもできた。決して個々のスタッフに介入したり、精神論などの圧力はかけない。日本人的には悪役かもしれないが、自分の役割を判っているマネージャで、ある意味理想の上司かと。
  • キャラ抜群のテレビディレクターの笹原は、無茶な企画の根源だし、トラブルを「こだわりのポイント~」などと適当な事を言って最後はスポンサー?と飲みにいくなど終始現場無視だ。しかしもし真面目なプロデューサーなら、スポンサーにトラブル続出がばれまくりで、放映中止されなくても責任や賠償や処分で現場を巻き込み大騒ぎになる筈なのに、結果的に上層部から現場を守って大成功の形にしたのは凄い。彼女の場合、ごまかす以前に本当に判って無いようだが、しかし不思議と現場とは別世界で、明るさで会社や人間を繋ぐ人もいて世の中は回っている面もあるなぁと痛感させられた。

 

無茶もトラブルも続出の困った世界だが、結果的に皆いいチームだったと思えるハッピー映画でした。

 

「カメラを止めるな! スピンオフ 『ハリウッド大作戦!』」 - らびっとブログ

(了)

映画「ダンケルク」いまいち

映画「ダンケルク」(2017年)は映画館で見損ねて、やっとU-NEXTで観た。ダンケルク第二次世界大戦初期の重要な撤収戦だが描いた映画は珍しく、「ダークナイト」などで人間の描写に迫力あるクリストファー・ノーラン監督だからとても楽しみだった。

 

映画は以下が同時進行で交互に描かれ、最後にほぼクロスする。

  1. ダンケルクからイギリスへ陸から船で脱出(1週間)
  2. イギリスからダンケルクに救援に向かう民間徴用船(1日)
  3. イギリスからダンケルクに向かう戦闘機(1時間)

 発想は面白いが各シーン間の時間が異なるので、シーンが変わると突然夜になったり、その次は前の昼がまだ続いてたり、同じイベントが別の視点でかなり後から再び描かれたり、変な感覚だ。

 

映画でもドイツ軍の戦車が止まったと話が出る。ヒトラーが袋のネズミ状態の憎き英仏軍を前に停止を命じたのは謎とされるが、電撃戦の空前の大成功の後で最後に慎重にしたのはわかるような。そもそも数や国力で劣るドイツは消耗戦は避けて戦略的勝利を重ねるしかない。しかしこの間にイギリスは民間徴用船を含めた大撤収を成功させてしまい、後の連合軍による西部戦線反攻(D-Day)に繋がってしまうのだ。仮にナポレオンなら撃滅戦を行ったのではないか。

 

映画の冒頭ではイギリス歩兵が街で銃撃に追われ海岸に辿り着くが、説明なし、敵は見えない、主人公にカメラが付いて回ると、後の「1917 命をかけた伝令」(2020年)の奔りみたいだ。

 

しかし細かい揚げ足を取るようだが、色々とリアルに感じられない。

  • 人間なら撃たれたくない。まず銃撃された方向を考えて物陰に隠れながら逃げるのが普通なのに、道の中央を皆でどんどん歩いて次々撃たれて減るなんて映像&ストーリー優先とは思うが不自然すぎ。
  • 船のすれ違いもスピットファイアの編隊も間隔近すぎ。映像優先はわかるが、これではアクロバットだ。
  • 砂浜に並ぶ兵士を上空から海岸線に沿って延々と何回も映す、ここが I-MAX 撮影の見せ場と思うが、30万人もの大撤収なのに人数が余りに少ない。民間徴用船も10隻くらいしか見えない。安易にCGを使わないのは偉いが、予算制約なら見せ方を考えて欲しい。しかも後ろの街並みは現代風で綺麗なのも違和感。
  • スピットファイヤは何回も敵機と遭遇しては撃ちまくる。弾切れが心配になる。「紅の豚」ではここぞという瞬間だけ押してたが、なんか幼児用テレビゲームみたいだ。あと弾が届く時間を考えて敵機より少し先を狙うべきじゃないのか。

 

それでも肝心の人間が描けていれば良い。民間船の3名、特に船長のドーソンと息子のピーターの演技はなかなかで、息子の変化がかっこいい。ただそれ以外は、船の沈没などの恐怖を監督得意の描写で描いて窒息恐怖症になりそうで迫力満点なのだが、しかし同じようなシーンが反復される。まぁダンケルクは海に追い詰められた話なので当然とはいえ、やっぱりワンパターン。どうせ細部はフィクションなので、「ダークナイト」のようにキャラクターに合わせた山場が欲しかった。

 

そして遂に3つのストーリーがクロス、といっても特に劇的に絡むわけでもなかった。これはリアルなのか拍子抜けなのか。

 

エンドはチャーチルイギリス賛美で終わる。「1917 命をかけた伝令」のように「実はもう一つ」がある訳でもない。この撤収成功で「ダンケルク・スピリッツ」が盛り上がったのは事実だが、なんだーただの英国ナショナリズム映画か、みたいな感じだ。

 

ただイギリスの田舎町で住民が「敗残兵」を温かく迎えるのは良いシーンだ。生きていれば次の希望もある。旧日本軍のような「お国のために死ぬことが名誉」「自分だけ生きて帰るのは恥辱」の精神論的美学ではない、しぶとい歴史と国民性を感じる。

 

確かにノーラン監督作品だったけど、なんだかなー、いまいちな作品でした。

 

映画「1917 命をかけた伝令」のワンカットと塹壕戦 - らびっとブログ

「涼宮ハルヒの憂鬱」TV版の見どころ

自宅療養中の家人が海外ドラマ見たいというのでU-NEXTを契約してPS4からTVに映るようにしたら、突然「京都アニメーションのアニメが良いと聞くけど何があるの」と聞かれて「ハルヒはオタクすぎ、けいおん!もいいけど、シリアスならユーフォニアムかな」と答えたが、自分でも気になりハルヒ(TV 1期)を見返して面白さを再実感した。

 

 

原作小説 (2003~)

原作は当時は角川スニーカー文庫で「驚愕」まで読んだ。谷川流の独特なノローグ文体は、主人公が思っているのか喋っているのかが、なんと相手の言葉が返るまで分からない!最初に読んだ時はこんな書き方もあるのかとたまげた。

 

そして気軽な学園ものなのに主人公キョンのセリフに哲学的なネタが混じる軽快さ、更にいとうのいぢの巨大な瞳と刺繍などこだわりあるイラストで超ベストセラー、「ラノベ」という用語が世間一般に知られた作品とも思う(それ以前もスレイヤーズとかあったけど)。

 

平穏な生活を望む主人公キョンが、ヒロインの涼宮ハルヒ、「宇宙人」の長門有希、「未来人」の朝比奈みくる、「超能力者」の古泉一樹らと「SOS団」に巻き込まれて、迷惑や面倒を感じたりしながらも、不思議な信頼感が積み重なっていく。

 

主要キャラクターには熱心なファンが付いた。ただ回を重ねるとキャラクター中心が進んで話の工夫は試みていたけどなかなか難しかったような気がしている。

 

長期休刊時に書店に唯我独尊キャラのはずのハルヒごめんね看板が出た時はギャップに驚愕した(作者がインタビューで「ハルヒには腹パン程度で許してもらえるだろうか」と言っていた記憶)。なお私が見たのは以下リンク先写真ではなく、ハルヒ型に切り抜かれた自立型立て看板でした。「驚愕」発売時のユキの「おまたせ」もちょっとギャップが(^^;

「涼宮ハルヒの驚愕」当初の発売予定日から3年 - きーぼー堂

 

TVアニメーション (2006 1期)

京アニが世間に最初に注目された作品と思う。特にエンディングの「ハレ晴れユカイ」(ハルヒダンス)。

 

ただ後のけいおん!やユーフォなどと違って、回(スタッフ)ごとの絵柄や作画品質のばらつきはかなり大きい。原作イラストに近い「憂鬱 I, VI」など(池田晶子作監)や、アニメ的に丸っこくて良く動く「憂鬱 III」「射手座の日」など(堀口悠紀子作監)が特に人気だったと思う。

 

更に予告編も毎回の工夫が話題だったが、含まれておらず残念。(TV放映は時系列ではなく、予告編もその順序を話題にしたネタもあったので、難しいのかも。)

 

原作のポイントを押さえながら、違和感あった点はさりげなく修正されてる(コンピ研からのPC強奪時に、原作では制止役のキョンハルヒに従い「セクハラ証拠写真」を撮影してハルヒの悪事に加担してるが、アニメではハルヒが自分で撮影、とか。)

 

特に好きなところは

  • 「憂鬱 I」 オープニングやエンディングに原作の作品世界をあちこちに感じさせるので原作ファンとして感動。特にキョンノローグは映像化困難と思っていたら、なんと「そのまま」で、しかも自然に繋がっているので驚いた(スタッフ内で色々議論があったらしい)。
  • 「憂鬱 III」 駅前のグループ分けで、ハルヒが抽選結果に不満そうにストローを吸う描写がおかしい(これは憂鬱 VIエンディングに続く)。
  • 「憂鬱 IV」 なんといっても朝倉涼子とユキの対決シーンの映像化。1回では見切れない。私は朝倉ファン(少数派)なので原作イメージ通りで嬉しい。(配慮ある殺意が逆に恐くて有終の美。だから原作で後で復活すると、ファン需要も判るが偽物みたいで複雑だ。)
  • 「憂鬱 VI」 憂鬱内憂鬱の最終話。終盤の閉鎖空間は、ほぼグレーな世界なのに微妙な色分けでこんなに綺麗な画面ができて驚き。しかもハルヒが普段になく不安な表情、転じて満面の笑み(キョンには不安)、そしてハルヒキョンに納得させようとする(従来ならありえない)微妙な動作、本当に神レベルハルヒキョンの関係がセリフで無く見えるのがいい。「フロイト先生も爆笑だ」(夢分析の深層心理の性的願望まんま)も笑える。
  • 射手座の日」 原作でもハルヒにPC強奪されたコンピュータ研があまりに一方的でヒドすぎるから作った「今回は自業自得だったな」エピソードと思うが(当時のキョン作成風の公式ホームページのセリフ)、遊び心満載でPCのLANケーブル配線やWindows XP画面までリアルだし(TVアニメ初では)、特にハルヒの丸っこく動き回る喜怒哀楽の作画満載堪能しまくれる(京アニのジト目の元祖では)。
  • ライブアライブ」これは有名すぎ。京アニ演奏映像の起源。God KnowsはCD版をiPoDに入れて通勤で毎日聞いてた。ただ傍若無人ハルヒがステージで他のライブメンバーを気遣ったスピーチしたり、成長と同時にキャラのイメージも変わってきてしまう。

 

やはり回やシーンによる品質差が激しい。どうせTV放映とは順序が違うし「憂鬱 I~VI」以外は半分独立エピソードなので、ピックアップして観るのも良いかと。

 

数話なら本筋の「憂鬱 I~VI」(途中で作画の波はあるが)、1話だけならSFパロディ調の「射手座の日」 か、学祭や音楽好きなら「ライブアライブ」とか。

 

(了)

 

「ほしのこえ」~「天気の子」新海作品感想

新海誠監督の劇場アニメーション7作品のミニ感想です。「君の名は」と「天気の子」は劇場で見て、その後にそれ以前の作品をテレビ地上波やU-NEXTで見ました。

 

 

 

ほしのこえ」(2002年、25分)

  • 対タルシアン戦に向かったミカコと、地球に残るノボルのストーリー。
  • 時空を超えて想いは伝わるか」は、ほぼ全作品に底流と思う。リアル風の光と影を強調した風景、描写は生活で時々空を見上げる、携帯電話(ガラケー)への異様な拘り、モノローグ中心、安易な結末をつけない、など監督世界が各所に見える。
  • どうしても「トップをねらえ!」を連想しまくるが、SF世界ながら観念的・情緒的で監督がファンと言うレイ・ブラッドベリな雰囲気も感じる。ストーリー中心(起承転結)でなくエピソードで語るというスタイルも。

 

雲のむこう、約束の場所」(2004年、91分)

  • 分断国家側の謎の純白タワーに飛行機で向かいたい浩紀・拓也と佐由理。
  • ちょっと長く感じた。情報機関とか武装組織とかアキラ的計画とか、斬新すぎる機体デザインとか、色々ある割に中途半端で結末のキャラ行動も納得感がない。
  • しかし電車、駅、「通じ合った2人」など、後に「君の名は。」で使用の要素満載。同じく作家性の強い宮崎駿が「パンダコパンダ」の洪水シーンなど得意な描写を積み上げて再構成してるのと共通性を感じる。

 

 

秒速5センチメートル」(2007年、63分)

  • それぞれ転校してしまう貴樹と明里、再開の旅、そして花苗の想い。
  • いやこれは凄いと思った。ストーリーの展開は実はほとんど無いのに、映像と音楽だけで延々と持たせてる。断片エピソードで世界観を感じさせる方向性の一つの完成形かと。見終わって音楽が頭から離れない。
  • これもモロに「君の名は。」に繋がっていく。

 

星を追う子ども」(2011年、116分)

  • 山間で暮らす明日菜と、アガルタから来たシュン、そして教師森崎の冒険
  • 絵柄も動きも美術もジブリ風なのは良いけど、冒頭の線路で寝てる明日菜が起きて走り出すとか、ジブリならある時間の溜め(?)が無い、シーンの繋がりが自然に見えないなど、見た目が似てるだけに余計にあちこち気になった
  • 陰に潜む敵、巨大な穴など面白い描写はあったが、長かった...

 

言の葉の庭」(2013年、46分)

  • 雨の日の朝に新宿御苑で出会うタカオとユキノ
  • 再び新海節炸裂の世界観。女性が年上はこれだけ。複雑な家族構成の絡みも「君の名は。」に繋がってると思う。
  • ただエンドを除いて音楽が最小限であまり印象に残らなかった。

 

君の名は。」(2016年、107分)

  • 東京の瀧と山間の三葉の入れ替わり物語
  • ご存知エンタメ路線転向での大ヒット作。劇場で「端からは端まで良くできてるなぁ」としか思えなかった。蓄積した歴代描写を素材的に集大成、音楽と合わせテンポよく伏線張りまくり、ギャグ・恋愛・家族・ミステリそしてスペクタクルありと、全方位型娯楽大作だ。
  • 知人の演出家は、冒頭の早回しで雲が流れる映像はアニメで初めてではと言っていた(全く気付かなかった)。
  • 監督は「随分と裏切り者と言われた」とコメントしてたが、自主制作も商業作品も両方喜んで見てた人間としては、2つの世界の間の「壁」はわかる気がする。そう言われるのは避けられない。でも本来どっちを作っても、交互に転向しても良い事だと思う。「1つの道を極める」同調圧力儒教の影響だろうか。
  • 個人的には、三葉が田舎を嘆くシーンの背景(息をのむ自然美)、「割れた」直後のTVアナウンサーの呑気な解説(観客には判る)、三葉の父親のドラマ(決断に影響と観客が推測できる)とか、観客への押し付けを避けた計算された感情移入が良い。

 

「天気の子」(2019年、114分)

  • 神津島から東京に来た帆高と、晴れ女の陽菜の物語
  • 前作「君の名は。」のダークバージョンと思う。地方の子供に「前作のキラキラ新宿だけを真に受けないでね」みたいな。
  • 妹→弟、お婆さん→お爺さん、駆け降りる→駆け上がる、など少しづつ変えたとこが却って相似的に見えてしまう。
  • 個人的には、生粋の貧乏人はラブホの自販機で大喜びしない、雲上シーンは前年の「ペンギン・ハイウェイ」に劇似、雨続きで海にはならない(ファンタジー)、とか気になってしまった(本質外ですが)。
  • 中高年は非ハッピーエンド、若者はハッピーエンドと感じた人が多かったとの説が興味深かった。中高年は既存の東京を護りで見てしまい、若者は未来を見る。それで良いと思う。

 

(了)

「スパコン世界一」は偉いのか?

日本のスーパーコンピュータ「富岳」が、スパコン性能ランキングの「TOP500」で一位となった。  しかし一応IT関係者としては「世界一高速」が単純に偉いのか疑問に思う。  

 

日本のスパコン「富岳」、8年半ぶり世界一奪還 :日本経済新聞

 

 

性能と順位

 

誰でも日用品は費用と価値にこだわるが、家とか高価で詳しくないものには確認が甘くなりがちだ。コンピュータも「道具」なので、どんな性能・機能が必要かは用途次第だ。元は税金で、仮にオーバースペックなら無駄だ。戦艦大和は昭和の三バカ査定と言われている。「プライドだけの無駄なハコモノ公共事業」ではいけない。

 

また性能評価の常で、TOP500はLINPACKというベンチマーク(性能評価ツール)を使うが、このツールに合わせて最適化する(つまり順位は上がるが、実際にはそれほど速くない)という場合すらある。何事も順位だけが全てではない

 

そこで用途を見ると、スパコン上位の米中は核爆発シミュレーションなど軍事用が中心で超高速な計算が求められる。しかし日本では創薬や環境問題などなので、仮に1/10の性能のスーパーコンピュータを20台買えれば、もっと効率的かもしれない。

 

今のスパコンは汎用的(一般的)なCPUを何万個も並べて並列処理をする。乱暴にいえば、「金さえかければ性能世界一ができる」訳で、だから適正な目的・性能・費用が重要だ。

 

もちろん並列処理の技術は非常に難易度が高いし重要だ。ただCPUの数が増えれば多少とも効率は落ちるので、「世界一」を優先すれば費用対効果も落ちてくる。(ここはソフトウェアも絡むので、ハードウェアだけで高速化は実現できない。)

 

利便性

 

「性能」だけで語れないのは「利便性」だ。今回「富岳」の関係者も強調している。

 

なお以前の「京」も、色々な種類の計算で安定して性能が出ているようで、この意味では「利便性」(処理の汎用性)は高かった。

 

しかし「京」のCPUはSPARC64系(元はSun、富士通カスタマイズ)、OSはLinuxのため、高価で消費電力や発熱も大きく、運用コストに影響し、また使えるソフトウェアが少なく、「京」ベースの市販スパコンはあまり売れなかったらしい。これでは結果的に大艦巨砲主義だ。(このほか、最初はベクトル演算とスカラー演算のハイブリッドという不可解な構成が、NECの撤退によりスカラーのみに変更など、開発経緯も二転三転した。)

 

そこで「富岳」ではCPUはARM、OSはRed Hat Linuxに変更した。ARMはスマホなどで広く使われているが、TOP500上位になったのは初めてだ。そしてRed HatLinux で最も普及しているディストリビューション(パッケージ)だ。

 

なお2-3位(従来1-2位)の「サミット / シエラ」は、CPUはPowerとNVDIA、OSはRed Hat Linuxだ。このPowerも性能あたりの消費電力が低い。つまり「富岳」と同じ方向性だ。

 

今回「富岳」は「京」の100倍の性能を、半分の設置面積(ラック数)、3倍の消費電力で実現し、消費電力当たりの性能ランキングの「Green500」でも上位になった。さすがARMの効果はばつぐんだ。こちらの方をもっと強調すべきと思う。

 

(追記)正確には、プロセッサの命令セットはARMだが、内部実装(マイクロアーキテクチャ)は「京」と同じSPARC64系らしい。

 

「2位ではいけないのですか」はまともな質問

 

なお「京」は「2位ではいけないのですか」が話題になったが、これは仕分けでの質問なので「1位を目指す必要性」を答えれば良いところ、予想外の質問だったようで担当者が答えられなかったために予算削減されてしまった。

 

「2位以下であるべき」とか「1位ではいけない」とは誰も言ってない。しかし仮に「世界一になりたいから、組織は威張れるし、金は税金だから」ではだめだろう。税金で国策なので、やはり目的や必要性に応じて性能があり、順位は結果だ。(モラルや人材確保の面もあるのは判るが、税金な以上は主客転倒はおかしい。)

 

最後に。今回の「富岳が1位」は、スパコンの世代交代のタイミングで他より早かったからで、1年後は別のシステムが1位になっている可能性は高いようだ。(「京」が一位だったのも2011年の2回だけだ。)

 

スパコン世界一」とはそういうものだ。巨額を投じるなら1年間のプライドより、ライフサイクル全体の利用利益が優先と思う。

 

なお理研側も「2位でもいい、順位より利便性」との発言をしている。こちらの方が妥当と思う。

 

世界4冠のスパコン「富岳」 基本姿勢は「2位になっても仕方ない」だった(神戸新聞NEXT) - Yahoo!ニュース

追跡:計算速度は2位でもいいんです スパコン、利便性に比重 - 毎日新聞

 

(オマケ)京の「2位じゃダメなんですか?」の経緯を良く整理した記事

 

 

 

 

(了)