らびっとブログ

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アニメ「幼女戦記」戦争とビジネス、悪魔と人間、そして劇場版

アニメ「幼女戦記」のTV版と映画版の感想です。

 

 

作品世界は

第1次世界大戦のドイツ風なので、昔なら敵役だけど東西南北と色々な戦線が描けるし、やたら双頭の黒鷲、権威的な参謀本部、葉巻、ビールとソーセージとか出るし、何より「貴様らが帝国のために死ぬことは永遠に生きる事だ」的な時代錯誤的なセリフ満載なのが当時の帝国主義的でいい。

 

作中で「帝国」「協商」「共和国」などの略もリアルい。突然第2次世界大戦のV1や戦車が出てきたり、両大戦が混ざっているのは中々馴染めないけど(^^;

 

戦争とビジネス

サラリーマンが転生して指揮官で活躍するが、ビジネスと戦争は親和性高いので自然だ。特に外資系では多くのビジネス用語が軍隊用語で、HQ(司令部=本社)、戦略、戦術、ロジスティイクス(兵站)、ゲーム(戦い)は日常用語だし、プロジェクトマネジメント技法の多くは軍から生まれたし、産学軍の交流も多い。

 

そもそも特定分野で複数の相手と調査・分析・方針・訓練・投入・戦闘・反省のPDCAサイクルを繰り返すのは戦争とスポーツとビジネス。(日本の古い会社では農耕民族的な静的階層と現場努力主義が強いが、変化し続ける市場では動的な変革の永続的反復が必要と思う。ただ狩猟民族型の「走りながら考える」も現場、特に板挟みの日本人は非常に大変だが。)

 

悪魔と人間

「さも悪魔的な絵柄」はどうかと最初は思ったが、この作品の悪魔は主人公ではなく人間だと思う。悪魔は人間性の中に潜む。メフィストフェレスキュウべえは人間の自由意思を尊重して丁寧に契約をオファーする。本当に怖いのは人間だ。

 

主人公は独善的で適者生存の競争社会を信奉して、畏怖せよと強要する神(存在エックス)と対立する。慈悲深いキリスト的な神でも、人間味あるギリシャ神話的な神でもなく、前近代の神、強権的で権威主義的で服従を要求する理不尽な神だ。つまり主人公も神もヤな奴だ。

 

転生した主人公ターニャも自己中心で冷酷な悪魔だが、同時に目的達成のために(時に誤算で)部下に配慮したり鼓舞して、自分は野蛮人や動物では無いと独白する。これ、優秀なビジネスマンとそっくりだ。自分とチームの成績を最大化し、周囲に配慮し、コンプライアンス上も問題ない証跡を残す。悪魔と人望は裏表だ。

 

これは神を捨てて合理主義・自由主義を選んだ近代人の業を描いた話と思う。魔導士は実際には急降下爆撃機とヘリボーン程度の位置付けで、ダキア戦では古臭い敵軍を馬鹿にして近代兵器で大量殺害する、協商戦や共和国戦では電撃戦の任務を優先する、そして対パルチザン戦では住民多数を含む都市を包囲砲撃して、更に攻撃したのは敵戦闘員だけと正当化の理論武装を試みる。悪意はなく、効率化への地道な努力。まさに近代化が生んだ悪魔だ。

 

ところで帝国では参謀本部が一見丁寧ながら、作戦を軍機として(皇帝には話したようだが)大臣らに伝えず主導権を握っている。ここは軍人ファンが喜んで政治家は無能と批判しそうだが、これは統帥権と勅令を盾にした戦前の日本の軍部(参謀本部、軍令部)と同じで、タイやパキスタンのように政治自体が軍部に従属する結果を招く。

 

そして劇場版は...

TVシリーズの続きだが、話をターニャとメアリーの対決を中心にしたためか、TVシリーズより色々と見劣りして残念だ。

 

まずターニャの悪魔面が、ラストのオマケエピソード以外は全く無く、部下想いで全体主義を批判する自由の戦士に見えるし、連邦の上層部はあまりに漫画的な悪役で深みが全くない。TVではターニャは基本は悪魔で、各国の上層部も単純な善人・悪人には描かなかったので、TV版と世界が違いすぎて良くある映画のようで残念。

 

そしてほぼ全体、TV版より画像が手抜きに見える。色々な制約かもしれないが、メアリーとの市街地チェースは動画のコマが少なくカタカタ見せるくらいなら、最初から枚数を押さえたカット割りにして欲しかったし、美術もTVの方が頑張っていたように見えたので、ちょっと残念でした。

 

 

「改憲」「護憲」どちらもおかしい

昔から憲法の話は関心あるが、「改憲派」も「護憲派」も変な話が多すぎると思う。憲法記念日にちょっと整理してみたい。なお特定政党の批判はしません。

 

  1. 一般論では憲法改正は良い事だ。改憲派は「押し付け憲法」、護憲派は「平和憲法」とか言うが、世界の大多数の憲法も最初は戦乱や革命の中で勝者が押し付けたもので、最初は反発も多く、これが改正のたびに「自分たちの憲法」と意識が変わっていく。民主主義(国民主権)なら「不磨の大典」ではないし、日本国憲法には改正手続きが書かれている。護憲なら改正も認めないとおかしい。
  2. しかし諸外国との改正数単純比較もおかしい。よく同じ敗戦国のドイツが比較されるが、ドイツは大陸法的な法治主義地方自治選挙制度など細かく書いているから改正も多い。日本国憲法では細部は法律に委ねられているから改正すべき頻度は少なくなる。
  3. ただし残念ながら改憲案には勘違いや無理解が多いとしか思えない。「憲法を更に良くする案」より、単に保守派が「気に入らない、邪魔なので弱めたい」風の、憲法論以前も多い印象だ。以下いくつか。
  4. 翻訳調で変な日本語だ」。法律は小説ではない。民法も刑法も元は翻訳だし、専門用語で色々な論点も含むから、ある程度は避けられない。現憲法も国会で制憲時に色々修正後だし、自民党や読売新聞の試案も「美しい日本語」には思えない。無いものねだりでは。
  5. 天皇を元首と明記」。元首や君主は本来は主権者。「君臨すれど統治せず」のイギリス国王(女王)は制限君主ながら政治権力が少しあるが、天皇は政治権限ゼロ。天皇を象徴として戦争責任を回避した歴史もあり、権限復活なら将来責任も伴う。世論調査でも天皇権限増の賛成は非常に少ない。ただの復古ノスタルジーに思える。
  6. 「戦後の個人主義を助長」。現憲法の「すべて国民は、個人として尊重される」は、元々はヨーロッパの身分制憲法の「所属身分ごとの権利義務」の否定条項(サヴィーニ)なので、自民党改正案の「人として尊重される」では、身分制否定の趣旨が消えてしまう。そもそも個人主義進展は現代化・都市化の影響が大きい。「家族保護条項の追加案」同様、条文の無理解か意図的と思える。
  7. 戦争放棄は理想論」。戦争放棄(9条1項)は不戦条約(侵略戦争違法化)が元で、背景は第一次世界大戦後の米仏の国益(対ドイツ、モンロー主義)で、単純な理想論や平和ボケではない。
  8. 戦力不保持は理想論」。本筋はこちら(9条2項)。1946年に政府は「自衛戦争も放棄」と国会答弁し、後に「必要最小限度の自衛力は、憲法でいう戦力ではない」と苦しい解釈変更し、今も自衛隊は「軍隊」では無いとする。改憲派は政治的ハードルが高くても堂々とこの2項を「自衛のための必要最小限度の軍備を保持する」等にすべき。(安保法制改正後も基本は同じ)
  9. 「現9条は変更せず自衛隊を明記」。憲法は組織名を書く場所ではない。警察も消防も財務省も書かれていない。組織名変更のたびに改憲なのか。9条2項が残るなら「どこまでが戦力か」の不毛な議論も残る。政治的に無理やり「加憲」にした案で、筋がおかしい。
  10. 教育無償化、道州制」。維新が主張。しかし法律だけでできるし憲法違反との議論も聞かない。改憲支持者を増やすイメージ作戦で不毛。
  11. 改憲発議を国会2/3以上から過半数」。硬性憲法が軟性に変質して、憲法と法律の関係性が変化して大混乱。政権交代のたびにコロコロ改憲されるかも。安易で無理解と思う。
  12. 新しい権利」。環境権、知る権利、プライバシー、個人情報保護など。どれも最初は議論になったが、文化的生活を営む権利(25条)などを根拠に法律で済むので、そもそも改憲必須ではない。
  13. 最後にまともな改正案を箇条書き。こういうのを議論して欲しい。ただし今の国会は「審議」すると常に多数派が有利(強行採決しやすくなる)なため、少数派(野党)の対抗手段は審議拒否や引き延ばし、との不毛な構造がある(特定政党に限らない)。
  • 天皇の国事行為の削減や廃止。「象徴」に国事行為は必須ではない。総理は国会指名、大臣は総理指名だけで済む。過剰な権威主義だし、政治情勢で天皇が外遊や静養を控えて待機し続けたり。天皇の負担・経費・政治利用問題も軽減。
  • 一院制。過去に共産党や維新が主張。議員と審議の半減には功罪あるが、世界的には一院制が多数派。ただし保守派は旧貴族院感覚と二院活用選挙技術があり困難そう。
  • 解散権の制約。「総理の衆院解散権」は現憲法に明記なく、天皇の国事行為からの強引な解釈だが、国論が割れた時に国民の声を聞くのは民主的と容認されてきた。しかし単に与党有利狙いの解散や、任期直前の無意味な解散も増加し、もはや先進国では日本のみ。有権者判断や選挙費用や議員活動も考慮して、選挙後2年間は解散不可など制限すべき。
  • 憲法裁判所。維新が主張。大陸法的発想で、自由主義的には違和感も。今の門前払いや長期化を防げるし、結論が明快に出て面白そうだが、米国のように裁判所への政治関与が増大する懸念も。
  • 婚姻の条件。現憲法の「両性の合意」では同姓婚が違憲なので「両者」などにするという案。うーん個人的には憲法制定時に「両性」を「同性を除く」との趣旨を込めたとは考えにくいので解釈変更だけで良い気はするし、同性婚心理的抵抗感を持つ層も存在するので単に法律で同性を(婚姻ではなく)婚姻同等のパートナーとすれば実社会上の壁(資産共有、病院面会など)は減ると思うけれど、どうでしょう。

 

アニメ「響け!ユーフォニアム」1, 2期の感想

今更ながら「響け!ユーフォニアム」のTV 1, 2期と劇場版 1, 2をU-NEXT見放題(標準料金)で見たので箇条書き感想です。

 

 

作品

制作はもはや老舗の京都アニメーション。原作小説やスピンオフ作品「リズと青い鳥」(2018年)、「劇場版 響け!ユーフォニアム~誓いのフィナーレ~」(2019年)はまだ見てない。

 

感じたこと

  1. 題名からして、地味だけど無いと困るユーフォニアムにスポットライトなのが面白い。ストーリーもユーフォ担当の久美子が、花形のトランペット(麗奈)などを影で支えたり影響され合ったりがコラボっぽい。
  2. けいおん!」や1期OPから、よくあるドジっ子主人公のキャラクターものかと思ったら、主人公(久美子)は表面は遠慮がちで周囲に合わせがちだけど、実は群れずに人間観察してボソっと本音を言う突っ込み役で、一瞬のジト目が魅力的。手探りで周囲に首を突っ込んで最後は突撃して相手の本音を引き出す人間群像シリーズの狂言回し役かと。そんな中で秀一とは避け気味ながらも口調が明らかに違うのが二人の関係性が微笑ましい。
  3. 麗奈個人主義的なミステリアス黒髪ストレート美少女タイプで「魔法少女まどかマギカ」のほむらを連想する。特別を目指し正論すぎて孤立も辞さない堅物だけど、中身はロマンチストで世渡り不器用で、久美子とは実は本音があるとこが共通かも。
  4. 鬼コーチ役の滝先生は、さも民主的に生徒自身に選ばせた形で全国大会出場に追い込むブラック教師。一見大人しそうだけど信条持ちでコミュニケーション最低限すぎなのは麗奈と似てる。車(2期6話)がクラシックなのも芸術肌の人にありそう。
  5. 晴香部長のように適任が別にいるのに部長にされるのは結構あるあるなので、気持ちわかる。でも本人は自信ないながらも常に部長職を真面目にやってる事が部員にも伝わってそうでいいですね。リラックス場面はあっても悪ふざけ場面は無いとこが副部長と対照的。
  6. あすか副部長は一見おちゃらけた姉御風の裏に冷徹な個人主義があって「エヴァンゲリオン」のミサトを連想する。こんな超人いないよ、とも思うけど、でも現実社会でも「自分は自分、他人はどうでもいい」と割り切ると、却って「これはロール(役割)だから」と割り切って周囲に積極的に接したり指揮できる場合もあるので、部長とは違ったリアルな指導者タイプかなと。

 

全体の感想

  1. 京都アニメーション制作の作品はいつも、シリーズ構成というのか各話のばらつきが非常に小さくてイメージ狂う回もなく安定クオリティな底力は本当に凄いと感じる。
  2. ただ新しい世界に入って邁進する元気な1期より、色々な過去(2年生、姉、顧問)が表面化する2期は、仕方ないけれど全般に暗いし盛り上りにくい。とはいえ希美先輩とみぞれ先輩のエピソードは納得できない。再入部を揉めてる先輩に皆気軽に話しかけるが気まずくないのだろうか。山場の教室(2期4話)では寡黙で更にパニック状態のみぞれが親密でもない久美子に突撃されて本心を突然長々説明する。優子は教室では希美を止めようともしない。相互に想いを伝えて即解決なら退部後に機会ゼロだったのか。色々と不自然すぎてご都合に見えるので、ここは嘘でもいいので切っ掛けとか伏線を入れて欲しかった(各話演出 小川太一)。なお後の久美子のあすかへの突撃(2期10話)では反撃されて変化もあった。
  3. とはいえ各山場の演奏パートが長いのは堪能できて嬉しい。視聴率重視の一般向けTVアニメで歌詞も無く数分も「見せる」のは演出作画の実力と思う。時間を単純比較すると(途中に会話や時間短縮もあるし時間だけが重要では無いけれど)3分以上は凄いと思う。
  • サンフェス 約1分20秒 (1期5話。意外と短く、印象残して過ぎ去る)
  • 京都府コンクール 約5分40秒 (1期13話。1期のハイライトで圧巻)
  • 関西大会 約7分30秒 (2期5話 。更に圧巻、後半はセリフもほぼ無い)
  • 駅ビルコンサート 約2分50秒 (2期7話。変化が楽しい)
  • 全国大会 約6分50秒 (劇場版#2の「三日月の舞」のみ。関西大会をベースに再構成された。もはやセリフゼロで純粋に演奏と会場内映像のみ。)
  • オマケ「God knows...約4分40秒(「涼宮ハルヒの憂鬱」 12話、2006年、シリーズ監督はユーフォニアムシリーズと同じ石原立也、ただし12話演出は山本寛。演奏と作画が大きな話題になったがTVアニメでこの長さも画期的だったと思う。)

オマケ

関連する演奏パートの動画です(自分のブックマーク代り ^^;)

 

涼宮ハルヒの憂鬱」12話「ライブアライブ」作中曲「God knows...」(京都アニメーションの作中演奏の元祖かと)

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作中で「三日月の舞」とされた2015年課題曲の「プロヴァンスの風」 。聞き比べてもいいですねー。

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これは嬉しい「三日月の舞(3大会 見比べ)」。最初は「劇場版#2の目玉なのに、背景以外は関西大会の使いまわしが多くて残念」と思ったけど、実はTV2期エピソードも踏まえて細かく入れ替えたりしているんですね。映像も3大会で段々と演奏中心が進んでます。

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以上感想でした。

漫画「アオイホノオ」と「DAICON III オープニングアニメ」

DAICON III OPENING ANIMATION」(1981年)の話を目当てに漫画「アオイホノオ(1~22巻)を読んだ。伝説的な自主制作アニメーション「DAICON III OP」やその流れの「DAICON IV OP」や「電車男 OP」などを振り返りたい。

(2021/2/21 YouTube DAICON III リンク更新、2021/3/26 「研連しりとり」リンクを追加、2021/4/11 リンク追加)

 

 

まとめ

 

DAICON III OP」は第20回日本SF大会(大阪、DAICON 3)のオープニングフィルムとして、当時学生でアマチュアだった庵野秀明赤井孝美山賀博之らが製作して一部で爆発的人気を得た伝説的な自主制作アニメーション。

 

DAICON VI OP」は第22回日本SF大会(大阪、DAICON 4)用に、上記「DAICON III OP」の成功を受けて結成された「DAICON FILM」(後のガイナックスの母体)が制作したオープニングアニメーション。

 

電車男」オープニングは上記「DAICON VI OP」が元ネタのテレビドラマオープニングで、後にテレビアニメ版「月面兎兵器ミーナ」なども作られた。

 

アオイホノオ」は作者やDAICON FILMらの面々を実録暴露的に描いた自虐風コメディーギャグ漫画とでも言えばいいのだろうか(^^;

 

DAICON III OPENING ANIMATION

 

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当時のおたく系サブカル界で漫画のあずまひでおに相当する衝撃があったと思う(キャラもあずまひでお調だけど)。自主制作アニメながら「アニメック」などアニメ各誌で大々的に取り上げられて、影響を受けた自主制作アニメも続出し、更にはその後のテレビアニメの新潮流(従来の「トリトン」「ヤマト」「ガンダム」など作品が先に在ってファンが支持するだけでなく、製作側がファンが好きそうなものを勝手に詰め込む「マクロス」や、各話作画・各話演出暴走の「うる星やつら」など)を許容し支持するファン層が形成されたターニングポイント的な作品かと思う。

 

それまでの自主制作アニメーションはプロの映像作家中心で、家庭用8ミリフィルム普及後も大森一樹など制作指向や美大生など芸術表現指向がメインで、1970年代後半にはグループえびせんなどエンターテイメントな制作集団や、中大アニ研早大アニ研などのTVアニメの影響も強くパロディやセルも含む自主制作アニメも登場していたが、全国区ではコミケや同人誌はあっても、「(おたくな)ファンによるファンのためのアニメ作品」は無かったと思うので、凄いカルチャーショックだった。「メカ・女の子・爆発(のみ)」で「著作権無視、二次創作動画の全国区元祖」と思う。

 

インターネット動画配信どころか、パソコン通信もビデオレンタル屋も無い時代なので、各アニメ誌を買ったり立ち読みで暗記し(すみません)、雑誌「月刊 ぴあ」で上映会を探して、東大駒場キャンパスでの東大SFアニメ研(SFA)上映会で見たのが最初で、他の自主制作アニメ上映会でも1~2回見たと思う(1982年の全国アニメーション総会には庵野氏本人が参加者として持込み上映。)

 

どの会場でも大ウケしたのが、赤井孝美の女の子や、「宇宙の戦士」のスタジオぬえ風パワードスーツが動く、イデのマークで笑い、ギガント炎上の再現度で「おおー」の歓声、そしてヤマトの大爆発で大歓喜(ヤマトは前年1980年の劇場版3作目で西崎のご都合商業主義が露骨になり、従来ファンの間で裏切られた許せんとの怨嗟の声が溢れ却っていた)。

 

個人的に感動したのは

  • 素朴な駆けっこから唐突な空中戦への転換など全編で音楽と作画がドンピシャの脅威の編集が、数百回は見返しても絶妙。枚数節約してポイントだけ拘り作画の対比。
  • 着地シーン。背中に推進器なので女の子は足を前にして着地前に噴射オフ、重量物のパワードスーツは仰向けで四肢バランスとり前かがみ着地という合理的リアル描写はTVアニメで見たことなく、同時にかわいくユーモラスとは驚愕。
  • 「道中に襲ってくる色々な敵(えすえふ)をかわして約束のDAICON(会場)へ」の構成が参加者に感情移入できて「いよいよ開幕です!」の大会オープニング王道感。主人公は普通(武器も学用品)で、悪者がえすえふなのもSF的相対化&自虐で逆に親近感。

後にビデオテープが1万円で販売され、たしかVHSまたはベータを選択可だったが、貧乏学生で、ボランティアや実費・小遣い程度も多いファンジン界での露骨な金儲けな大阪商人に反発して買わなかった(赤字解消で開始と知ったのは後年)。

 

今も、個々の技術レベルはともかく、懐古感情を除いても名作だと思う。

  

この後10年は影響を受けた作品が続いたが、個人的に特に感動したのは

  • 慶大アニ研「Powerd Suites」(ペーパー自主制作)アニメーション研究会連合合同上映会で。端正な線と浮遊感が素晴らしい。死ぬまでに再見したい(^^;
  • 「SHIBACON」(ペーパー自主制作)淡々とした作画が逆に魅力的。作者の風穴さんから大変丁寧なファンレター返信を頂いたのも感動でした(^^)

 

なお慶大「Powerd Suites」の雰囲気は(オリジナルではなく、恐らくアニ研連内部保存用のビデオテープを参考に後年リメイクした)「県連しりとり」の中の3つ目で伺える。オリジナルは線も動きもよりシャープな気がするがセンスは伝わると思う。

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そして「DAICON III」によって、同人誌界に続いて「ファンでもアニメをやれる、新時代が来るのかも」ムーブメントを感じたのでした。

 

DAICON IV OPENING ANIMATION

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成功した「DAICON III OP」の2年後、技術レベルは格段に向上したし凄いけれど、個人的にはいまいち感情移入できない。

  • 「III」の「素人でも手間かけた短編なら、商業アニメより濃い映像もできる」ではなく、プロ投入を事前宣伝。
  • ビデオ販売目的が露骨な、冒頭から過剰書き込み(静止させないと到底見切れない映像を作るのが凄いのか、するにしても段々が良かったのでは)。
  • 何よりストーリーや「大会のオープニング」感が少なく、「凄い映像を連続すれば凄い」感(2番煎じはできない、広く受けたいのはわかるけど)。

 

またアニメ研究家の原口正宏の説明「IIIはあずまひでお風、IVはあだちみつる風のキャラクターなのが、この2年間の時代の変化を感じる」もあるかも。個人的にはこの手のファン要素陳列的作品は、「不条理日記」や「SHIBACON」など、IIIのように主人公はやや無表情な方が空想が広がる気がする。

 

アニメック」に、空中戦は板野一郎板野サーカス)、当時では大胆作画のガッツポーズは平野俊弘と書いてあった気がする。

 

とはいえ庵野秀明の「核爆発」は別格。従来はニュース映像でしか見なかった超常映像がアニメで、しかも「あっ、エンタメ作品で核爆発はまずいっ」と思う瞬間に花吹雪で「逆破壊(地球復旧)」と判る秒の演出は職人芸。(ただその後、話がどう繋がってるのかわからないけれど。)

 

以下は1955年ネバダ核実験場のニュース映像。家や森の爆風は1分30秒以降。こちらも凄いです。来るべき核戦争に備えて自国兵士に平気で被爆させてるのも、その映像が公開されているのも凄いですが。

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電車男オープニング

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2chは以前から使っていたが、テレビドラマは逆に家族が喜んで見てたが私は見なかった。この作品のヒットでリアルの2chではロマンスや友情を夢見る一般人の入会が続出し、しかし2chは決して一般人に親切な世界では無いので、迷惑だ、馬鹿か、とっとと出ていけと集団で罵倒され瞬時に追い出されるという、双方に不幸な状況が続いた。

 

オープニングは「DAICON IV OP」をベースに、「ダイコン」を「ニンジン、ウサギ、アキバの電気街と電車」に変えて、一部「DAICON III OP」の連装ミサイルも加えて、一般向けにしてなかなかイメージ保ってるかとは思う。

 

個人的には太陽系はやはり最後のキュイーンのところで電車男ロゴに変化して欲しかったけど、作品の方向性上はこちらかも。

 

アオイホノオ 

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『アオイホノウ』デジタル版 11巻 113p

 

島本和彦は初期の「炎の転校生」から、古典的ヒーロー物の形を借りた、精神自虐ものが相変わらず面白い。そして「アオイホノウ」は当時の関係者の暴露ものでもあるけれど、アニメや特撮などのサブカルチャーが徐々に市民権を得ていく時代の雰囲気や、衝撃的だった作品のポイントなどがうまく描けていると思う。

 

同時期の学生なら、ビデオデッキは名機SONY J9が憧れだが超重いとか(私はスリムなSONY F11まで待った)、プロとアマの境界が一気に流動化して妙な熱気が溢れ、新世界に飛び込むチャンスなのか一時的なブームなのかと色々議論したり悩んだり、他者を馬鹿にしてみたり、コンプレックスだったり。

 

ところで黎明期は往々にして美化されて記憶されがちだけど、色々なデマや内紛で不毛な対立したり、有名人の名前を勝手に使ってボロ儲けする人は当時も沢山いたし、いつの時代も同じかと思う。「アオイホノオ」は怪しげな人も沢山出てくるけどコメディーになってるのがいいですね。

 

ただ同じエピソードを使いまわして多数のページを使うのは、連載物の宿命もあるけど薄まって少し残念。続きが楽しみです。 

 

大林監督は「HOUSE ハウス」が一番

大林宣彦監督が亡くなったとの報道を見て、突然だが「HOUSE ハウス」(1977年)について書きたい。大場久美子でハウスでもククレカレーではなく映画の話です念のため。

 

著名な作品は皆さんが沢山触れてくれると思う。

  • ハイライトシーンが演劇か!の「ねらわれた学園」(1981年)
  • 元祖TS学園映画の「転校生」(1982年)
  • これぞ知世神格化映像の「時をかける少女」(1983年)

 

でも私には大林監督と言えば「HOUSE」だ。

 

CMで活躍していた監督の初劇場映画作品だけど「最初だからインパクト」ではない。大林作品を色々見てから、初期の作品らしいと雑誌「ぴあ」で見て板橋区あたりの名画座で一人で観たと思うがそのインパクトは忘れない。

 

映像の魔術師」と言われる監督だが、映像はリアルや幻想的というより、コラージュやサブカルの世界と言うか、安易なマンガでチープで手抜きにしか見えないシーン続出なのだが、それが前後の情緒的で耽美な当時の少女漫画的世界と不思議に繋がって飽きない。

 

そこが次第に世間一般向けに名作調になってしまった作品群とはまた別の、「こんな表現もしてみたい、これはどうだ」「映像は爆発だ!」なニッチでストレートな初期の破壊力が感じられる気がする。

 

それでいてファンタが可愛いアイドル映画だし(すみません大場久美子目当てで観ました堪能した)、友情出演の農夫(小林亜星)は笑えるし、おばちゃま(南田洋子)はディズニー映画悪役のように圧倒感あって美しい。

 

この予告編だけでもカオス満載(4/12 11:00 リンク訂正/追加)。

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AFSイベントでの予告編。アートだ。

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そしてこの導入部だけでも女学生世界の妙な平和さが違和感で既に怖い。

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違和感と美、破壊と計算が共存した気軽なコメディホラーかなと思う。良くこんな変な劇場映画を作れたものだ。

 

騙されたと思って探して観て欲しい。ただ「ほんとにチープじゃんか」とのクレームはスルーさせて頂きます(^^)/

 

ご冥福をお祈りします。

アニメ「推しが武道館いってくれたら死ぬ」最終回

テレビアニメ「推しが武道館いってくれたら死ぬ」(2020年1~3月、監督 山本裕介、略称 推し武道)が12話で最終回になった。

 

岡山の地下アイドルグループ「ChamJam」の最下位メンバー舞奈と、その熱烈ファンの女性えりぴよのすれ違いを描くコメディー。

 

知人が関係してる話を知って見始めて、「舞奈」は「マイナー」の意味と後から教えてもらって気づいたけど、実は個人的には見続けられるか不安だった。

 

まずアイドルものは好きでない。大抵の作品は宣伝過多か逆に非現実的すぎるし、ダンスシーンは音楽や作画の出来が気になるし、CG多用は違和感があるし、そもそも大人がまじめに観るのは恥ずかしい。でも推し武道はリアルっぽい舞台で抑制の効いたコメディでたまに情緒的(いわゆるエモい)シーンもあり、えりぴよが暴走してもキモくならずにうまく描いてる。

 

次にマンガ絵なのに線が多くまつ毛をしっかり描く絵柄は生理的に拒否感ある。走りはゲームの「卒業」(1992年)あたりか。でもこの作品は端正な線で上品に描いているし省略もうまく、段々慣れてくると舞奈以外のメンバーの見分けもついてきた。

 

監督はテレビアニメ「ケロロ軍曹」(2004年~)でも原作の雰囲気を保って尺を膨らませるのがうまかったと思う。メイド喫茶であやに会う話も、原作のすっとぼけたテンポをアニメでも感じられた。

 

そして最終回。いままで不安を隠して皆をリードしていたセンターの五十嵐れおが後列組3人から逆に励まされ、えりぴよと舞奈の噛み合わないお約束の握手会は遂に舞奈から想いを伝える事ができ、そして最終回エンディングは二人のデュエットが流れて、画面には今まで見た事のないような温和なえりぴよと安心した舞奈の写真、でもやっぱり2人でハートができてないのが笑えるし、距離(物理)はあっても通じてる感じで、なんともうまい最終回だったと思うのでした。

 

おまけ。「めいぷる♡どーる」のメイは、眼のアップだけで迫力出して、舞台前にれおにダメージ与えたセリフも見返すとそれほど悪気なかったともとれるセリフで、微妙なバランスが良かった。単純に悪者出して主人公達に感情移入は安易だし、この程度の棘は乗り越えていかないですし。

 

アニメ「魔女の宅急便」豆知識

アニメ「魔女の宅急便」(1989年、監督 宮崎駿)の軽めの豆知識3点。

 

 

題名の「宅急便」

 「宅急便」で黒猫のジジも出るけど、クロネコヤマトヤマト運輸)は元々は関係ない。昔の「シスコ王子」や映画「キングコング」みたいに広告用に企画された作品ではない。

 

まず「宅急便」はヤマト運輸登録商標(1979年登録)で、一般用語は「宅配便」。「セロテープ」と「セロハンテープ」みたいな関係ですね。

 

原作は児童書「魔女の宅急便」(1982年~、角野栄子)ですが、「宅急便」が登録商標とは知らなったようで、アニメ化の企画の際に問題になり、打診しに行ったら許可どころか逆にタイアップに発展したらしい。もしNGだったらアニメの題名は「魔女の宅配便」だったかも。

 

 

トイレシーン

 キキが朝トイレに行くシーンは、劇場初見で吹き出しそうになってしまったのを覚えている。というのは「宮崎ヒロインは、うんちもおしっこもしない」との表現が当時はアニメ誌やファンで広く普及していたので、本人がそれを気にしてわざわざ入れたとしか思えなかったので。

 

未来少年コナン」のラナ、「ルパン三世 カリオストロの城」のクラリス、「新ルパン三世」の「さらば愛しきルパンよ」の小山田真希など、純真で可憐だが芯が強い、いかにも男性から見た理想のお姫様。

 

ただ、宮崎作品以外でも、更には実写でも、トイレシーンなんて無いのが大半なので、宮崎キャラは不思議な実在感があるからこそ「でも非現実的だよね」とか言われるので、誉め言葉かも。

 

監督はあのシーンは思春期の女性が、と説明しているようですが。

 

 

ラストシーン

 あのラストシーンは原作にはない鈴木敏夫プロデューサーがそそのかして、監督が付けたらしく、制作時は議論があったといわれている。少女の生活や自立を描いた原作世界に、いかにも漫画映画クライマックスな宮崎ワールドをぶちこんで、自分の作品世界にしてしまう作家性が良くも悪くもすごいですね。

 

古くは劇場アニメ「ガリバーの宇宙旅行」(1965年、東映動画)で、若手動画マンだった宮崎駿がラストシーンを変えて、作品世界を最後にひっくり返してしまったことも有名ですね。こちらも宮崎美少女です(セリフは一言ですが)。

アニメ「映像研には手を出すな」は盛り上がらないのがいい

NHK深夜アニメの「映像研には手を出すな」が12話で最終回を迎えた。色々な意味でエポックメイキングな作品だったと思う。

 

もちろん「手を出すな」は「アンタッチャブル」つまりアブナイ奴らという意味だが、ここでは「独自世界で踊ってて外から関与困難」くらいか。

 

話は、浅草みどり、金森さやか、水崎ツバメの女子高生3名(電撃3人娘?)が集まってアニメーション作品を作るだけ。それだけの話、なのが重要だ。

 

まず大童澄瞳の原作漫画は、洗練された万人に好まれる絵柄とは正反対の、一見下手にも見える大胆な省略と妙なこだわりに溢れた独特な世界だが、それをアニメでかなり再現できてるし、見慣れるとこれ以外に考えられない。

 

そして監督の湯浅政明は映画「夜明け告げるルーのうた」(2017年)で高低差ありまくりの古びた港町を魅力的に描いたが、今回の「公立ダンジョン」や街並みでも生きている。

 

 

映像なんだよのオープニング

 常習性が話題のオープニングだが、作画的には手抜きにも見える画像処理は「既存のアニメ風アニメではなく、アニメーションという映像作品を作る話」とのコンセプトかと。

 

影響を受けた作品や取り入れた技法はあっても、既存作品のコピー作品を作りたいのではなく、浅草も水崎も自分が表現したいものを(それが何か自分でも良くは判らないが)とにかく創りたい衝動がある。

 

そこが「既存のアニメファンの多いアニ研に入る」でなく、「新規に映像研をでっちあげて試行錯誤する」舞台とも一致する。

 

ここが青春?時代に「何か作りたい、表現したい、こだわりたい」を感じた人には通じるし、それが無い人には多分意味不明な作品に見えるのかと。

 

イメージボードな妄想シーン

 売りはやっぱり動くイメージボードにしか見えない妄想シーンで、余白のある水彩みたいな美術世界が強烈だ。

 

イメージボードが一般に知られたのは、やはり「宮崎駿 イメージボード集」(1983年、講談社)からと思う。完成品の映像や手前のセル画なんかより、中間成果物の筈のイメージボードの方が世界やこだわりが伝わって夢が広がったりする。そう、余白がある方が空想の余地は大きい。

 

特に1話で浅草と水崎が共同製作したメカは、羽や脚周りのこだわりも、この「宮崎駿 イメージボード集」の飛行メカにそっくりだ。

 

萌えない3人

女子高生3名は、大多数の萌えキャラと違って媚びない。不自然に赤面したりドジっ子したりゆるふわしない。萌えもいいけどワンパターン変態的洪水はうんざり。しかし3名は下着姿でもお風呂回でも平然。サークル活動ならこれが普通だし、すがすがしい。

 

しかし実写版は、かわいい姿を見せる商売がアイドルだ。水崎はともかく、浅草や金森はカメラににっこりとか、絶対しない。別作品として観るものかと。

 

プロデューサーならマネジメントだ

色々大人気の金森氏は、作品とスタッフを結び付けるプロデューサーというより、プロジェクトマネージャかと。多くの制作モノは、現場重視・担当者美化の根性モノで、経営者や管理者は「数字だけでクリエイターの想いが判らない」邪魔者扱い。でも時間や能力や機材や締切など色々な制約事項を整理して、ステークホルダー(利害関係者)と共有して、どうにかこうにかまとめるのがマネジメントの醍醐味だ。

 

金森は作品自体に関与しないのは役割分担(ロール)。口が悪くて厳しいが、仲間には嘘は言わない。金のためと言うが、起業や経営自体が好きに見える。だから最初から何かを持っている(差別化できる素質を感じる)浅草と一緒なら何かできるのではと狙っていたのかと。

 

日本では経営・スポーツ・学校から政治までマネジメント軽視。マネジメントを「管理(者)」と訳すと単なる上司や事務役に思えてしまう。日本語自体に概念が薄いのが残念だ。

 

コナンはちょっと強引か

 細かく言えば気になるのは、1話のアニ研上映会。原作ではアニ研の自主制作を浅草が論評するが、アニメでは「のこされ島のコナン」(元は「未来少年コナン」)が上映されるが、同じ作品を浅草は子供時代にテレビで見ている。しかしアニ研には自主制作を見に行ったのではないのか?テレビ作品上映ならフライングポッド直後にギガント発進シーンが出るのか?演出の説明に実に最適なシーンなのはわかるが、ちょっと展開が不自然。コナンを喜んでいるファンが多いし、私も熱烈ファンだけど、ここは自主制作の上映に徹しても良かったのではないか。

 

学園祭での段ボール軍団が旧ルパン「どっちが勝つか三代目」と飲食カットまで同じとか、マニアな元ネタ探しも楽しいが省略。元ネタなくても面白い作品なので。

 

最終回は盛り上がりナシだ!

 期待の最終回は、なんと盛り上がらない。仮に盛り上げるなら、お得意の妄想シーンで暴走させる、敵役だった生徒会や教師も陰ながら応援する、遂に作品が大評判になる、街のファンも3人も一緒になり感動する、とかが普通だが、そんな「大団円」は無いのだ

 

最終回は「学校を出たら甘えは許されないのが当然」と金森が言う中で、「浅草が決断する(従来の自信無さは完全消滅、最終決定&最終責任が演出だ)」、そして「(作品も反響も見てないのに)まだまだ改善の余地がある」。これが最終回のすべてだ。

 

完成して良かったと盛り上げて終わる話ではない。(もしかして一生)満足できないで苦しむ。でも実は、より厳しい環境でも決断し続けられる理想の演出家が生まれようとしている。

 

最終回は敢えて「浅草の成長、距離を保ちながら役割分担で信頼しあう仲間、とはいえそれぞれDVDを観た人々も「世界」を感じた」だけに絞ったのかと。学園祭の集団体験より、DVDを各自宅で観る人々にイメージを与える方が難易度高いかも。

 

ところで本物の「未来少年コナン」は最終話のサブタイトルと内容が「大団円」だ。浅草は大団円のダンスは嘘だと言って作り直す。推測が入るが、子供時代に啓発された憧れの作品を、実は超えようとしているのかも。宮崎駿東映動画時代の「ガリバーの宇宙旅行」や、後の「魔女の宅急便」などでラストを大幅に変えてしまい、原作をぶちこわして、独自の作家世界を創って来た事を思い出すのだった。

 

まとめると、一般受けカタルシスを敢えて避けて、伝えたい主眼を絞ったところが、いさぎよい(度胸がないとできない)最終回かと思えました。

 

映画「ジョジョ・ラビット」に見るナチス

映画「ジョジョ・ラビット」(2019年、監督 タイカ・ワイティティ)を観た。

 

題名は「臆病者のジョジョ」の意味。コメディーだが主人公の少年ジョジョの心の友がヒトラーという一見あぶない映画で、アカデミー脚色賞受賞。

 

ヒトラーナチスも年月経過で色々な表現が一般にも許容されてきた流れですね。

 

例えば、後に「全体主義の起源」を書いた政治学者のハンナ・アーレントは、ナチス・ドイツから運良く逃亡できたユダヤ人だが、戦後のイスラエルでのアイヒマン裁判を傍聴して、彼らは邪悪な暴力主義者ではなく、むしろ我々と同じ小心者の人間と分析して、大多数の家族友人から非難され絶縁された。(なお周辺諸国は大量のユダヤ人亡命に対して国境閉鎖したため、多くが脱出できず強制収容所送りとなった。表面では反ナチスや理想を掲げても、目前の難民は見捨てたいのは変わらない。)

 

確立されたステレオタイプは強固。私が子供のころは、ヒトラーナチスは精神異常者で性的倒錯者の集団という主張が普通だった。(逆差別は不毛かと思う。「愛の嵐」なんて倒錯愛の映画もあったが。)

 

しかし、ヒトラーを人間として描いた「ヒトラー 〜最期の12日間〜」(2014年)や、現代にヒトラーがタイムワープしてくるコメディ「帰ってきたヒトラー」(2015年)などと同様に、本作も、相手を悪者に描くだけではなくて、あなたはどうなの的な視点もあって重層的なエンタメだった。勿論ナチスの主張や行為も後半かなり描かれている。

 

映画的には、主人公が映画デビュー作とか、コメディアン出身の監督がヒトラー役も兼任とか、観てから知った。多才だ。ビートたけしか。

 

大きなネタばれは避けるが、まずオープニングやジョジョの部屋が親衛隊などナチス風の凝ったデザイン満載で引き付けられる。そしてヒトラーの振る舞いや消え方が徐々に変化するのもうまいし、最後の方は記録映画かと思うほど演説が似ていてさすがコメディアン(これは少年の成長も表していると思う)。そしてジョジョの目線の高さに母親の靴のレイアウトがトラウマになりそう。

 

終盤では武器マニア風の女性事務員が子供達に「ほら、アメリカ兵にハグしておいで」と次々送り出すのが、ごく軽く描かれているのが却ってブラックだが、本国に攻め込まれて窮した国がやることはどこも大差ないということか。

 

つい、守備側は街頭に出て突撃しては不利だろうとか、敵占領直後に若い女性(ユダヤ人でもドイツ人)が身ぎれいにして家から出るのは危険とか心配してしまう。演劇に近いと思えば良いのですが。

 

いきなりソ連が出て、ここはエルベ川近郊かと驚いたが、直後の展開で納得。しかしこの使い分けはリアルだけどちょっとずるい。演劇に(以下略)

 

そしてラストは少女役のトーマサイン・マッケンジーの正面映像が目に焼き付いてしまったカットで終了。別の意味でずるい。しかし映画的な見事な構成でした。

 

映画「パラサイト 半地下の家族」勘違いな批評も多い

映画「パラサイト 半地下の家族」(2019年、監督 ボン・ジュノ)を観た。劇場混んでた。

 

個人的には絶賛の「グエムル 漢江の怪物」の監督で、カンヌやアカデミー受賞と聞いて期待してたら、うーん普通のテレビドラマみたいな展開で演出も普通、これはハズレだったかと思ってみていたら...

 

www.parasite-mv.jp

 

予告編で「ネタバレ厳禁」と出るけれど、実際そう思うので後半の展開は書かない。

 

サイトの監督メッセージには「道化師のいないコメディ」「悪役のいない悲劇」。なるほど。

 

まず、好き嫌いは分かれる作品と思う。それで良い。誤解を恐れずに言えば、映画好きな人にはお勧めしたい

 

次に、経済格差を舞台にしているけれど、単純な格差批判の社会派映画ではない。ある新聞が、貧困にしては半地下が広いと書いていたけれど、ちょっとズレてる。

 

また、貧しい家族が皆才能ありすぎとか、避難生活の日も立派な服装で出勤とかは確かに不思議だけど、そこは本筋ではない。

 

あと「日本は韓国に映画で負けてる」とかの単純な国家比較も見当違い。監督の作品はもともと面白いし、どの国でもつまらない作品は多い。受賞数での単純比較は形式の権威主義だろう。

 

登場人物が自分の想いをべらべら喋ったりしないから、「万引き家族」のように、観客が登場人物やシーンを感じたり解釈できる作品かな。

 

細かい伏線や暗示が多くて、宅配ピザが何回も出てきたり、家のカメラアングルが凝っていたり、何故か何回も見たくなる感じ。なお「プラン」は韓国で良く使われた言葉とか。なるほどです。

 

そして、最後は家族愛なのか、絶望なのか、将来への希望なのか、不思議なラストには江戸川乱歩の小説「人間椅子」を連想したのでした。あれは怖い!

映画「1917 命をかけた伝令」のワンカットと塹壕戦

映画「1917 命をかけた伝令」(日本公開 2020年2月、監督 サム・メンデス)良かった。お勧めです。戦争映画の形ですが、とても映画らしい映画でした。

 

ただ原題は単に「1917」。スピルバーグの「1941」やオーウェルの「1984」も連想する。日本人に第一次大戦が馴染みが低いのはわかるが、「命をかけた伝令」との副題はベタすぎると思った。

 

 

疑似ワンカット映像

 監督が祖父から聞いた実話がベースで、第一次世界大戦西部戦線を舞台に、無名の伝令が攻撃中止命令を伝令するだけの話だが、宣伝文句の「全編ワンカット映像」がうまく効果を出している。

 

「全編ワンカット」とは、事前の準備はとても大変だが、カメラは1台で済み、撮影も編集もわずか2時間で終了するので、大変楽な映画製作方法で、今後は主流になるといわれている。なーんてことは勿論ない(^^;

 

「カメラを止めるな!」の前半パートなどの「本当のワンカット」ではなく、ミュージックビデオによくあるデジタル編集でうまくカットを繋いで、ワンカットに見せているから、いわば「疑似ワンカット映像」。しかしそれでも、カメラ(観客)はほぼリアルタイムで主人公に同伴し続けて、更にレイアウトや映像が美しいので、体験共有できる没入感はなかなか。

 

しかし本当のポイントは「主人公がその時に見聞きできた以上の説明は一切無い」ことで、背景とか相手の想いとか、全て推測するしかない。ここは好き嫌いが分かれるし、分かれて良いと思う。私は良かったと思う。

 

1泊2日を2時間にするため、距離や時間はデフォルメされている。主人公の主観的時間軸でもあり、監督が演劇出身なのもなるほど。そして監督が人間の善悪対比のうまいクリストファー・ノーランの影響を受けているのもなるほどです。

 

ここで舞台背景の復習を。

 

西部戦線塹壕

 第一次世界大戦サラエボの皇太子暗殺事件を契機に、英仏露などの連合国と、独墺などの中央同盟国の間で4年間も続いた。当時は世界経済も好調で、各国は開戦を避ける努力をしたが、勢力均衡による平和を主張して数十年かけて構築した軍事同盟が、この時は単なる一地方の偶発的事件を世界戦争に発展させてしまった。

 

特に仏独間の西部戦線」といえば悲惨な塹壕だ。機関銃の発達と大量運用により、従来の騎兵や歩兵による突撃は鉄条網で足止めされ機関銃でなぎ倒されて、死傷者は激増、英仏海峡からスイス迄の長い国境線に大小の塹壕が何重にも掘られて、戦線は膠着状態に。

 

塹壕にいても狙撃や砲撃で死傷が続くが、無人化すれば占領されるため、ナショナリズムに燃えて戦場での華々しい活躍を夢見る若者が続々と補充されては、湧き水など劣悪な環境の塹壕で延々死傷する「消耗戦」が何年も続くという地獄。そう、兵士は消耗材なのだ。

 

だから塹壕戦は英仏独などのトラウマで、この悲惨を描いた小説・映画には「西部戦線異状なし」がある(悲惨な消耗戦の状態が「異状なし」という怖い題名だ)。またロンドンの「王立戦争博物館」には塹壕を模擬体験できるアトラクション風の展示もある(おもわず「かわいい」と思ってしまう悩ましい兵器の展示もあり、お勧めです!)。そして今も不発弾処理が続いている。

 

なお塹壕戦対策として毒ガス、そして塹壕突破のため戦車(イギリスでの暗号名「タンク」)が登場するが、この大戦では状況打破にはならない。(映画では放置された1台が見えるだけ。)

 

そして連絡は有線電話が中心のため、まだまだ「伝令」が重要だった(後に第二次世界大戦を引き起こすヒトラーもドイツ側の伍長で伝令でした)。

 

戦争映画かスリラーか

 映画に戻ります。

 

最初は木陰での休息から塹壕へ。それも平和そうな景色から、後方の食事洗濯などの生活から、簡易な浅い塹壕、そして前線の深い塹壕や疲れて荒れた様子まで、画面どうりに「地続き」なのが圧倒される。生活も戦闘も同時に続いているのが戦争だ。そして観客には、時間と距離のデフォルメも最初から始まっていることが判る。

 

途中で兵士の「クリスマスに帰れるか」の会話が聞こえるが、これは1914年の大戦勃発時の各国兵士の楽観論「この戦争はすぐ終わる、クリスマスには帰れる」をイメージしていると思う。

 

この映画は「戦争映画」か「スリラー」かの議論があるが、戦争映画としてシビアに見ると、いくつか気になった。

 

まず主人公ら2名が前線を突破するシーンでは、敵前かもしれない場所でも2名が常に一緒に移動する。ここでカメラは嘘のように離れたり回り込んだり水上を通ったりと「ワンカット」映像の凄さを見せつけるので、2名を常に近い位置に入れたかったのはわかる。しかしこれでは2人は良い標的だ。1名が構えて援護、1名が進むを繰り返さないと危険すぎ。戦闘は未熟な兵士なのかもしれないが、これは気になりまくりだった。

 

逆にドイツ軍の塹壕(要塞の一部?)はやけに立派でいかにもドイツという感じで面白かった。エイリアンとか異文化への侵入(^^;

 

そして狙撃兵の潜む建物への突入などは、映画の変化や時間経過の必要性はわかるが、兄を含めた1600名の命を救う使命を持った伝令としては任務の優先順位が疑問。同等の人数と武装なら守備側が有利だし、仮に勝率が0.5でも、川に沿って大きく迂回も可能な地形に見えるし、伝令を優先すべきと思ってしまった。

 
とはいえ相手の意図などが見えないのはリアル。助けた敵パイロットに仲間が刺されるシーンは「ひどい」とか「戦争の狂気」との感想も見ますが、捕虜は可能なら敵を殺して自力帰還すべきなのは基本任務。だから確保側も本来は威嚇しなから武装解除する。

 

このシーンでは救助を優先して武装解除の余裕は無かった訳ですが、パイロットは狂信的だったのか、パニック状態だったのか、捕虜は惨殺されると信じていたのか、何か誤解があったのか、そもそも主人公は見ていないので何もわからない。ただこの後で、それでも主人公は若い敵兵士を殺さないようと行動するが、また別の結果に終わる。結果的には間違った判断だったかもしれないが、戦争や人間はそういうものかとも思う。主人公はその時点でできる事を選択している連続なだけだし、説明セリフが一切無いだけに後々も考えさせられる。


そして後半は、照明弾らしき光で照らされる夜の廃墟、燃える街でのフランス人の婦人、合流した部隊などは、主人公も疲弊しているためか、戦争映画なのに美しくもあり、もはや幻想世界のようだ。

 
最後には任務の後で、実は別の伝令が残っており、木陰で休む映画の最初に回帰するようなシーンで終わる。伝令は総攻撃を中止させただけで、特に英雄でもなく、当時は多数繰り返された小さな物語の一つすぎない事を暗示しているようだ。

 

まとめ 

 「1917 命をかけた伝令」はスペクタル戦争映画ではないが、塹壕戦を舞台に、個人の小さな体験を観客が同伴し続けて、そして何を感じたかも観客次第という、売りは最新映像でも、実はとても映画らしい映画でした。

映画「この世界の(さらにいくつもの)片隅に」が残念だった理由

前作の「この世界の片隅に」(2016年)は、本当に素晴らしい作品だった。それに約40分間を追加した新たな映画「この世界の(さらにいくつもの)片隅に」(2019年12月)を、是非見たくてやっと正月に見たが、好きな作品なだけにとても複雑だった。

 

前作は、映画館で最初のシーンを見たとたんに引き込まれた。いきなり絵本のような緑がかった青い海と空、空想と混ざった幼い記憶が劇中劇のように語られて、オーバーアクションも紙芝居も避けた人間の細かい動作に枚数かけた実に丁寧な作画、そして物不足とか憲兵とか悲惨なはずのシーンまで最後はギャグっぽく軽妙にまとめてしまう原作の味、その品質がなんと全編続くのだ。こんな職人気質の良質な長編アニメーションが、大手商業ベースでなく(まぁ採算取れると思えない)クラウドファウンディングまで使って地道にこつこつ作り上げられた事に本当に驚いたし、素晴らしいと今も思っている。

 

もちろん「どこが良いか」は人それぞれで良いけれど、単純に「戦争もの」とか「反戦アニメ」や「戦争の悲惨さ」などの言葉を見ると「うーん違う」と思えるほど当時の世界や人間を描けている、少なくとも並のステレオタイプな実写よりはるかに。超ロングランが続いたのも納得の作品。

 

だから長尺版は楽しみだった。ただ題名は1作目題名への追加挿入が「さらにいくつもの」と「(さらにいくつもの)」が混在して検索でややこしかった(スクリーンでは「さらにいくつもの」が後から浮かび上がってくる。つまり括弧は無い。)

 

しかし劇場でショックを受けた。考証の進展に合わせて背景など細部が改良されていたが、肝心の追加シーンは全て色合いも作画もいまいちで、「あ、このシーンいいな!」と思うと、常に実は1作目のシーンだと気づいてしまう。

 

遊女の白木リンのエピソードが1作目映画では大幅に削られていたので、長尺版で「復活」したのは正しかったと思う。ただ、平版なカメラアングルで、長い会話の間も動作や表情変化も少なく、すずさんのまつげも妙に黒く硬くて、原作や映画1作目のような軽妙なオチも無い。お花見の桜も普通に見えてしまった。

 

歴史考証もいいけど、基本は人間ドラマなので人を丁寧に描いて欲しかった。まぁ1作目が秀逸すぎで、普通のアニメなら十分な品質ですが、一緒になると作品全体のレベルを引き下げてしまって哀しい。

 

救いは長尺版が「別作品」扱いなこと。これが「映像研には手を出すな」にロボ出演した「やぶにらみの暴君」のように、作者が後年作った低品質改悪版(「王と鳥」)を「本物」として、旧作を見つけ次第廃棄しだしたら「人類文化の損失だー」と耐えられないところでした。でもこれから観る人の多くは「さらにいくつもの」だけを観てしまうのだろう。

 

今も好きな作品にネガティブな事を言うするのは気が進まない(2か月弱かかってしまった)。

 

お詫びに「この世界の片隅へ」ファンの方へ。原作者のこうの史代の漫画「夕凪の街 桜の国」は短編ながら超名作です。こちらも是非(^^;

 

 

映画「アナ雪2」このシーンが凄い

映画「アナと雪の女王2」(2019年、監督 クリス・バック)の感想です。「ここが凄い」と「ここが気になった」をなるべく簡単に。軽いネタばれあり。

 

 

ここが凄い

 

2013年の前作「アナと雪の女王」の6年ぶりの続編で同じ監督。ディズニー長編ヒット作の「2」なので、前作のイメージや各キャラクターのファンを裏切らず、しかし新しい面も求められ、勿論「政治的な正しさ」(PC)も厳格に求められるので大変だ。

 

でも「2」は「1」の世界観を保ちながら、舞台や話を発展させて、スペクタクル要素の爽快感も出せたと思う。いきなり国王と王妃まで出てきたのは驚いたけど。

 

最初の登場人物紹介も、エルサがうっかりバルコニーの手摺を氷らせたり、街の子供に氷細工を依頼されて苦戦した表情したり、クールで万能なだけでないところが幅があって楽しい。

 

また「1」ではほとんど描かれなかった城の従者や、王族関係以外のシニアなカップルや平民同士のカップルも登場して、さすがの多様性配慮。

 

アナとクリストフの似た者同士漫才も面白い。

 

「イントゥ・ジ・アンノウン」(心のままに)も慣れてくると今回も名曲で松たかこさすが。

 

そして「2」ではエルサが陸海空の戦闘シーンで大活躍。今回も能力を使う前の「ため」がうまく、いざとなると両脚をふんばる古典的プリンセスを超えたポーズまで。でも必殺技はティアラ形の氷バリヤーで、実は「1」の戴冠式と同じデザインのサイズ違い、あくまで防御メインと一貫しているとこがいいですね。

 

ここが気になった

 舞台的に仕方ないけれど暗い画面(夜間、霧、水中、地下)が多かった。

 

そして今回のテーマ「なぜ、エルサに力は与えられたのか―。」は、何故危険を冒して、一緒に行くとのアナとの約束を破ってまで、エルサが謎の解明に突き進んだのか、その心情がいまいちわからなかった

 

もちろん「何故エルサだけ魔法が」「謎の声は」「アレンデールの異変は」「深い霧は」「戦闘理由は」「ダムは」「複数の魔法が」「あの海難は」「北の島とは」と謎三昧の構成ですが、「私はどうしても解明したい」と想いが、「イントゥ・ジ・アンノウン」の歌詞以外には見えなかった。

 

「1」でも想いはミュージカルパート自体で語っているけれど、ミュージカルの中で揺れる想いが描かれていたのと比較すると、「2」ではちょっと一本調子に見えてしまって、やっぱり「1」の方に共感できたのでした。

 

(おまけ)「3」も可能な終わり方でしたね。さすが商売上手(^^;

映画「アナ雪1」このシーンが凄い

映画「アナと雪の女王」1作目の「このシーンが凄い」を書いてみました。2作目は1作目のイメージを保って丁寧に良くできているけれど、やっぱり1作目の方が共感できるので、その映画的な凄さを振り返ってみました。

 

 

ミュージカルが主役

 「アナと雪の女王」(2013年、ディズニー、監督 クリス・バック)は原作「雪の女王」とクレジットされるけど、ほぼ完全なオリジナルで、アカデミー賞の長編アニメーション賞と歌曲賞(レット・イット・ゴー)も受賞した大ヒット作ですね。

 

もちろんディズニー長編アニメの伝統のミュージカル仕立てのプリンセスものファンタジーなのですが、前半30分の感情引き付けが半端ない映画と思うのです。

 

ディズニーも含めた多くのミュージカルは、登場人物が「楽しい、悲しい」となってから、ミュージカルパートが始まって空想を膨らませて表現する。ミュージカルシーンは楽しいけれど、ストーリー上はオマケで修飾にすぎないとも思います。

 

でも「アナ雪」ではミュージカルシーンの中で登場人物の想いやストーリーが展開する。うまくいけば音楽・歌・踊りに合わせて文字通り「劇的」なインパクトを観客に与える事ができるけど、下手すると登場人物の想いやストーリーが観客に説明不足になりかねない。

 

個人的には、1作目も2作目も良くできているけど、1作目(特に前半)はミュージカル自体がドラマチックで「単なる子供向けではなく深い」「これぞ映画」と思わせるのに、2作目はちょっと「登場人物がそうする必然性がわからないなぁ」と思えてしまったのでした。

 

そこで1作目の前半のミュージカルパートを3つほど、振り返ってみました。

 

「雪だるま作ろう 」

 まず冒頭の村人シーンは、作品世界やクリストフらの紹介に加えて「氷は美しく役に立つ」の伏線かと思うけど、省略。(なんとなく東映動画の「太陽の王子 ホルスの大冒険」を連想してしまいましたが ^^;)

 

www.youtube.com

 

「雪だるま作ろう」は明るく楽しいメロディーなのに「常に拒絶される歌」。事故の記憶を消されたアナが無邪気に歌うほど痛々しく、エルサの拒絶もアナの安全を想うが故、という悲しい背景が描かれ引き込まれる。民謡の「シャボン玉飛んだ、屋根まで飛んだ」が、実は死んだ子供を想った歌と知った時のようだ。

  

そして途中で挿入される国王夫妻の海難シーンは、荒波がゆっくり高く伸びて水面に何も見えなくなるだけのシンボリックな映像表現が映画的だし物語的。そして再開する悲しげな「雪だるま作ろう」の歌では扉を挟んだ二人の世界の断絶が描かれ、最後まで救い無く、ただの子供向けとは思えない。(この楽しかった子供時代との対比が、後のオラフ活躍にも活きてくる。)

 

「生れてはじめて」

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次の「生まれてはじめて」がまた凄い。この軽快なメロディー内で、戴冠式での開門を前に外の世界に明るい希望を持つアナと、自分の魔法の秘密を隠し通そうと決意するエルサの、相反する想いが異なった調子で交互に歌われる。しかも途中参加するエルサは後の「ありのままで」のメロディー(いわばテーマソング)を先取り披露。そして両者とも「開門」に集中する事で、観客も「いよいよどうなるのか」と没入する。

 

このキャラクターにメロディーを持たせるのは、ワーグナーや「スターウォーズ」などの手法(ライトモチーフというらしい)と思うし、異なる想いの歌が交互に重なり共通ワードに集中するのは「ウェストサイド物語」の「トゥナイト」を彷彿させますが、「アナ雪」ではこれをハイライトシーン直前ではなく導入で早々使うのが大胆で贅沢ですね。レイアウトを含め、本当に何回見ても鳥肌が立つ凄いシーンです。

 

「ありのままに」

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そして実質ハイライトの「ありのままに」(レット・イット・ゴー、レリゴー)。

 

ここでもエルサの想いの変化は、歌の前ではなく、歌の中で描かれる。トラウマとコンプレックスの重圧から、開放感、達成感、そして最後の勝ち誇ったような表情。まさにミュージルパートがドラマ本体で、前後が補足説明なくらい。

 

途中、能力封印の手袋や、王族の象徴である暗いマントを投げ捨て、優しげに子供時代のオラフを作ると、暗い「谷」を軽々と飛び越え、自力で「城」を構築して引き籠る。音楽もセリフも演技(作画)も全てタイミングぴったしで、これぞミュージカル映画だし、ビジュアルと暗示が細かく一致していて、何度見ても泣けます。

 

ディズニー初の長編アニメ映画「白雪姫」も、城から逃れる際に森で王族の象徴である黒いマントを失い、以後は7人の小人と明るく生活する。小道具の意味が暗示されていて面白い。また引き籠ると人々が天候異変で困るのは「天の岩戸」みたいですね。

 

そしてここも、歌の表面は「少しも寒くないわ」とポジティブに終わるけど、観客は「逃げて城を捨てただけで本当にいいのだろうか」とネガティブに思えるところがまたも深くて全世代向け。

 

おまけ

 ちょっと脱線しますが、いいなと思う点。

  

エルサが能力で水上を走る、谷にかけた氷の階段を登る、氷の城を建てる、ティアラを投げ捨てるなどの重要なシーンの直前で「ちょっと確認」する演技(作画)がリアリティを出していてうまいなぁと思います。

 

宮崎駿作品でも、「カリオストロの城」の屋根ジャンプ前の100円ライター操作、「千と千尋の神隠し」で外階段ダッシュ前のそろそろ歩きとか連想します。アニメは「絵空事」が容易だからこそ、(本当のリアルではなく)もっともらしさが重要かなと。

 

またアナが小川でスカートを凍らせてテケテケ歩きとかは1950年代の漫画映画を連想します。単なる王子様ものではなかった現代的な面も、古典ファン向けの面もあり、幅広い層を満遍なく配慮してるかと。

 

オラフも単なる子供向けおちゃらけキャラだけでなく、雪だるまだから気候が元に戻れば消えてしまうという悲劇的宿命を持っているのが、なんか日本の歌舞伎やアニメのような。

 

また実は悪役のハンス王子も、本国では13人王子の末っ子で恐らく子供のころから自分の国を持ちたいと願っていて、留守もちゃんとアレンデールを守っていて、本来なら優秀な国王になれた人物にも思えるのがいい。

 

最後に純粋悪役のヴェーゼルトン侯爵は登場時から自分は悪者だと喋りまくっていて逆に愛嬌がある。こちらはディズニー伝統のキャラで、これまた両方揃えているところがうまいですね。

 

(今回を踏まえて、次回は「『アナ雪2』このシーンが凄い」 です。) 

映画「翔んで埼玉」さすがの配慮

映画「飛んで埼玉」は映画館で泣けたが地上波も良かった。作品上の配慮がうまい。CMが多くて流れ寸断だけどノーカットは嬉しい。しかしTV放映直前のネタばらしまくりは悪質だった。なお私は高知生まれ埼玉育ちの神奈川在住です。

 

www.tondesaitama.com

 

徹底した配慮

この映画は、「パタリロ!」で有名な魔夜峰央が1982年の埼玉・所沢在住時に自虐的に描いた僅か数話で中断の同名漫画が、2015年頃に何故か「この漫画が凄い」と話題になって2019年に実写映画化され大ヒットした「埼玉ディスリ映画」(主演 二階堂ふみGACKT)ですね。「パタリロ!」同様に、お耽美・男色・時代錯誤・様式美なギャグ漫画をどう実写化できるか、過激な差別描写がどうなるかかなり心配でした。

 

しかし公開直後から「良かった」感想が多く、徹底した配慮尽くしのお陰かと。まずポスターからして「茶番劇」と相対化して「何も無いけどいい所」とヨイショ。

 

映画の構成も、原作部分は「伝説パート」で、映画独自の「現代パート」で劇中劇にして、現代パートの菅原愛海(実際に埼玉出身の島崎遥香)が「伝説パート」を「都市伝説」で「バカバカしい」と繰り返す。原作で友情出演のパタリロが作者に「浦和から文句が来てもしらんぞ」とか突っ込む描写の代わりですね。

 

更に「伝説パート」内でも、原作ではデパートで埼玉県民とバレた麻実麗らが一般客から冷たい眼を向けられ差別の根深さを再認識するという結構重要なシーンが、映画では一般客はアホっぽく卒倒だけで問題は一部の上流階級だけのように変更されている。

 

あと原作の「埼玉県解放連盟」は、映画では「埼玉(千葉)解放戦線」とネーミング変更で更に架空っぽく。

 

そして、あの魔夜峰央のお耽美世界を敢えてそのままコスプレ再現して「伝説パート」の架空性を強調し、交互の「現代パート」対比で飽きさせないのも効果的。「男色」嫌悪者も、現代パートの「BLになってる」との突っ込みセリフで相対化されてる。

 

もちろん最後は「この映画は埼玉解放戦線制作か」と評されたヨイショのオンパレード、とどめがエンディングのはなわで、これまた最後は評価で終わる。冗談慣れしてない観客を含めて、うっかり本気にしたり怒ったりしないよう、何重もの配慮がされているのがすごい。

 

埼玉ネタ 

 

埼玉ネタが、大きいものから細かいものまで仕込まれていて、知っているレベルでそれぞれ笑えるのもいい。

 

山田うどん」は行きと返りの2回も出てくるし、愛海の婚約者(これまた実際に埼玉出身の成田凌)の車が赤いのも浦和レッズファンだからと思うし(浦和地区は昔からサッカーが盛んだが、レッズは熱心すぎるファンも多く、等々力のホーム側入口にトラブル防止の警告が置かれるのは対レッズ戦のみなのも元サイタマンとして恥ずかしい、どうにかならないのか (^^;)

 

与野は黙っとけ」は、昔から行政都市で県庁所在地の浦和(いわばワシントン)と、商業都市で大都市の大宮(いわばニューヨーク)の対立があり、合併交渉は難航して「さいたま市」という変な市名で双方妥協したが、中間の小都市の与野は昔も今も発言権が無いというリアルな話。

 

もともと埼玉は独自の有名戦国武将もおらず、特に熊谷を中心とした北部と、大宮を中心にした南部が明治の廃藩置県で無理やり同じ県にされた事もあり、何回も分離騒動もありまとまりには乏しい。だから強者を前に分裂気味なのもリアル(^^;)

 

まぁ名所が無いといっても、川越や秩父や所沢航空公園の他に、長瀞吉見百穴、サイボクハム、森林公園とか、鉄道博物館渋沢栄一記念館、ぎょうざの満州、(発祥は富山ですが)富士薬品セイムスとかもあるけど...北部は疎いけど、どれもマイナーでしょうか(^^;)

 

まとめ

 

あの問題作の原作を元に、洒落の通じない人も含めて楽しめる、何重ものうまい配慮が活きている。

 

脱線するけど、西武・そごうのパイ投げ広告が批判されたのは、画像が暗くて一般人が単にいじめられて見える写真だからだし、赤十字の最初の宇崎ちゃん献血ポスターは中央のバストだけ視線集中する構図のせいだし。

 

世間はすぐ「表現の自由派」と「公共規制派、平穏生活権派」で不毛な喧嘩をするけど、多くの人は一見での直感判断なので、大半は単に作品制作時のセンスの問題と思う。(特定層向けや批判覚悟で過激表現するのは勿論良いけど、一般狙いのプロなら両立も練ってほしい。)

 

映画「翔んで埼玉」は、あの原作の作品世界をかなり忠実に実写化して、過激セリフはそのままに、でも多くの一般客にも受容できて見終わって笑顔で帰れる形にして、さすがと思うのでした。