らびっとブログ

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アニメ「映像研には手を出すな」は盛り上がらないのがいい

NHK深夜アニメの「映像研には手を出すな」が12話で最終回を迎えた。色々な意味でエポックメイキングな作品だったと思う。

 

もちろん「手を出すな」は「アンタッチャブル」つまりアブナイ奴らという意味だが、ここでは「独自世界で踊ってて外から関与困難」くらいか。

 

話は、浅草みどり、金森さやか、水崎ツバメの女子高生3名(電撃3人娘?)が集まってアニメーション作品を作るだけ。それだけの話、なのが重要だ。

 

まず大童澄瞳の原作漫画は、洗練された万人に好まれる絵柄とは正反対の、一見下手にも見える大胆な省略と妙なこだわりに溢れた独特な世界だが、それをアニメでかなり再現できてるし、見慣れるとこれ以外に考えられない。

 

そして監督の湯浅政明は映画「夜明け告げるルーのうた」(2017年)で高低差ありまくりの古びた港町を魅力的に描いたが、今回の「公立ダンジョン」や街並みでも生きている。

 

 

映像なんだよのオープニング

 常習性が話題のオープニングだが、作画的には手抜きにも見える画像処理は「既存のアニメ風アニメではなく、アニメーションという映像作品を作る話」とのコンセプトかと。

 

影響を受けた作品や取り入れた技法はあっても、既存作品のコピー作品を作りたいのではなく、浅草も水崎も自分が表現したいものを(それが何か自分でも良くは判らないが)とにかく創りたい衝動がある。

 

そこが「既存のアニメファンの多いアニ研に入る」でなく、「新規に映像研をでっちあげて試行錯誤する」舞台とも一致する。

 

ここが青春?時代に「何か作りたい、表現したい、こだわりたい」を感じた人には通じるし、それが無い人には多分意味不明な作品に見えるのかと。

 

イメージボードな妄想シーン

 売りはやっぱり動くイメージボードにしか見えない妄想シーンで、余白のある水彩みたいな美術世界が強烈だ。

 

イメージボードが一般に知られたのは、やはり「宮崎駿 イメージボード集」(1983年、講談社)からと思う。完成品の映像や手前のセル画なんかより、中間成果物の筈のイメージボードの方が世界やこだわりが伝わって夢が広がったりする。そう、余白がある方が空想の余地は大きい。

 

特に1話で浅草と水崎が共同製作したメカは、羽や脚周りのこだわりも、この「宮崎駿 イメージボード集」の飛行メカにそっくりだ。

 

萌えない3人

女子高生3名は、大多数の萌えキャラと違って媚びない。不自然に赤面したりドジっ子したりゆるふわしない。萌えもいいけどワンパターン変態的洪水はうんざり。しかし3名は下着姿でもお風呂回でも平然。サークル活動ならこれが普通だし、すがすがしい。

 

しかし実写版は、かわいい姿を見せる商売がアイドルだ。水崎はともかく、浅草や金森はカメラににっこりとか、絶対しない。別作品として観るものかと。

 

プロデューサーならマネジメントだ

色々大人気の金森氏は、作品とスタッフを結び付けるプロデューサーというより、プロジェクトマネージャかと。多くの制作モノは、現場重視・担当者美化の根性モノで、経営者や管理者は「数字だけでクリエイターの想いが判らない」邪魔者扱い。でも時間や能力や機材や締切など色々な制約事項を整理して、ステークホルダー(利害関係者)と共有して、どうにかこうにかまとめるのがマネジメントの醍醐味だ。

 

金森は作品自体に関与しないのは役割分担(ロール)。口が悪くて厳しいが、仲間には嘘は言わない。金のためと言うが、起業や経営自体が好きに見える。だから最初から何かを持っている(差別化できる素質を感じる)浅草と一緒なら何かできるのではと狙っていたのかと。

 

日本では経営・スポーツ・学校から政治までマネジメント軽視。マネジメントを「管理(者)」と訳すと単なる上司や事務役に思えてしまう。日本語自体に概念が薄いのが残念だ。

 

コナンはちょっと強引か

 細かく言えば気になるのは、1話のアニ研上映会。原作ではアニ研の自主制作を浅草が論評するが、アニメでは「のこされ島のコナン」(元は「未来少年コナン」)が上映されるが、同じ作品を浅草は子供時代にテレビで見ている。しかしアニ研には自主制作を見に行ったのではないのか?テレビ作品上映ならフライングポッド直後にギガント発進シーンが出るのか?演出の説明に実に最適なシーンなのはわかるが、ちょっと展開が不自然。コナンを喜んでいるファンが多いし、私も熱烈ファンだけど、ここは自主制作の上映に徹しても良かったのではないか。

 

学園祭での段ボール軍団が旧ルパン「どっちが勝つか三代目」と飲食カットまで同じとか、マニアな元ネタ探しも楽しいが省略。元ネタなくても面白い作品なので。

 

最終回は盛り上がりナシだ!

 期待の最終回は、なんと盛り上がらない。仮に盛り上げるなら、お得意の妄想シーンで暴走させる、敵役だった生徒会や教師も陰ながら応援する、遂に作品が大評判になる、街のファンも3人も一緒になり感動する、とかが普通だが、そんな「大団円」は無いのだ

 

最終回は「学校を出たら甘えは許されないのが当然」と金森が言う中で、「浅草が決断する(従来の自信無さは完全消滅、最終決定&最終責任が演出だ)」、そして「(作品も反響も見てないのに)まだまだ改善の余地がある」。これが最終回のすべてだ。

 

完成して良かったと盛り上げて終わる話ではない。(もしかして一生)満足できないで苦しむ。でも実は、より厳しい環境でも決断し続けられる理想の演出家が生まれようとしている。

 

最終回は敢えて「浅草の成長、距離を保ちながら役割分担で信頼しあう仲間、とはいえそれぞれDVDを観た人々も「世界」を感じた」だけに絞ったのかと。学園祭の集団体験より、DVDを各自宅で観る人々にイメージを与える方が難易度高いかも。

 

ところで本物の「未来少年コナン」は最終話のサブタイトルと内容が「大団円」だ。浅草は大団円のダンスは嘘だと言って作り直す。推測が入るが、子供時代に啓発された憧れの作品を、実は超えようとしているのかも。宮崎駿東映動画時代の「ガリバーの宇宙旅行」や、後の「魔女の宅急便」などでラストを大幅に変えてしまい、原作をぶちこわして、独自の作家世界を創って来た事を思い出すのだった。

 

まとめると、一般受けカタルシスを敢えて避けて、伝えたい主眼を絞ったところが、いさぎよい(度胸がないとできない)最終回かと思えました。