らびっとブログ

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映画「カメラを止めるな!」のワンカットと悪役評価

話題作「カメラを止めるな!」(2017年)は劇場で1回、テレビ録画で3回見たが、スピンオフの「ハリウッド大作戦」を観る前にとU-NEXTで見直した。公開当時はSNS時代なのにネタバレ防止がかなり守られて映画ファンのモラルも話題となった。

 

最初は既に評判が高まってからだが「冒頭37分はワンカット・ワンカメラ」だけの知識で観て、何故か静かな劇場で、監督が実は私怨で女優・男優に詰め寄るシーンは吹き出してしまった。

 

この作品は映画製作や業界モノに興味がある人には面白いと思う。でも現実から離れて美しい映像や感動ドラマを求める人には「なにこれ」かも。「面白さがわからない」という感想も結構あるけど、それでいいと思う。

 

まず冒頭37分は本来「違和感だらけの素人フィルムだ金返せ」と思わせて、後半で伏線回収(というか種明かし)する構成と思うのに、個人的にはワンカットが凄すぎて驚愕して、いまいちのれなくて困った。

  • もちろんB級ゾンビ映画は、特殊メイクとカット割りで持ってる低予算の代表格なので、「ゾンビ映画をワンカット・ワンシーン」は聞いただけで無謀だ。
  • そこでワイドショーの芸能人街歩きのように、絵になる地点は決めるけど後はカメラが単に役者に同伴する形と思っていた。
  • ところがいきなりハイライトシーンで個々のカット(?)が本格的、廃墟の特徴的な丸窓や天井や機械をうまく映す、カメラは室内別通路で並行移動、そして劇中劇とスタッフ視点の間の切替もスムーズ(監督がカメラの後ろに回り込むと劇中劇復活とか)など、37分間の撮り方を綿密に計算してたとしか思えない。
  • 更に後半は細い地下道や屋上階段で、スタッフ並走もできずカメラがこけたら全部取り直しで、無謀すぎ、バカなんじゃないの(ほめ言葉)と手に汗を握ってしまった。

 

そして後半のメイキングもどき。

  • よろしくでーす」は何回見ても本当にムカつく(これもほめ言葉)名セリフだ。
  • 多数のスタッフがカメラに映らないよう黒子として大活躍するのが目玉だ。
  • しかし何回見ても事故で参加できなかった2名(劇中劇の監督役とメイク役)は印象に残らない。もう少しキャラ立てても良かったのでは。(すみません顔を覚えられない人なので。)
  • 好きなシーンは主人公の監督がラストシーンの変更を迫られた時に娘の真央がそれを見つめるカット。他よりやや長めで、何も言わない、動きもしないが、制作者の情熱が親子間で初めて共有できた瞬間だ。主人公の「わ、わっかりました」の飲み込むようなセリフは社会人なら共感できるのでは。

 

最後に。2人のプロデューサーはもちろん「上の都合で現場に無理難題を押し付ける悪者役」だけど、社会人視点で見ると結構有能。何故かこの評価は少ないけど、色々に思えるのは深い。

  • イケメン・プロデューサーの古沢は、思わぬトラブルに直面しても、すぐに次善の判断をする。現場の手伝いはしない。実は実世界で一番困る上司は、判断を先送りしたり曖昧にしたり、逆に現場の手伝いを始めて本来の役割(ロール、決断)から逃げてしまうこと。特にテレビ生放送なら、職人の拘りより放映を守る事が優先だ。最後に放送中止に傾いたのも、良い手段が無ければ正しい判断だった。(強要されたにせよ)彼がOKを出したのでラストシーンもできた。決して個々のスタッフに介入したり、精神論などの圧力はかけない。日本人的には悪役かもしれないが、自分の役割を判っているマネージャで、ある意味理想の上司かと。
  • キャラ抜群のテレビディレクターの笹原は、無茶な企画の根源だし、トラブルを「こだわりのポイント~」などと適当な事を言って最後はスポンサー?と飲みにいくなど終始現場無視だ。しかしもし真面目なプロデューサーなら、スポンサーにトラブル続出がばれまくりで、放映中止されなくても責任や賠償や処分で現場を巻き込み大騒ぎになる筈なのに、結果的に上層部から現場を守って大成功の形にしたのは凄い。彼女の場合、ごまかす以前に本当に判って無いようだが、しかし不思議と現場とは別世界で、明るさで会社や人間を繋ぐ人もいて世の中は回っている面もあるなぁと痛感させられた。

 

無茶もトラブルも続出の困った世界だが、結果的に皆いいチームだったと思えるハッピー映画でした。

 

「カメラを止めるな! スピンオフ 『ハリウッド大作戦!』」 - らびっとブログ

(了)

映画「ダンケルク」いまいち

映画「ダンケルク」(2017年)は映画館で見損ねて、やっとU-NEXTで観た。ダンケルク第二次世界大戦初期の重要な撤収戦だが描いた映画は珍しく、「ダークナイト」などで人間の描写に迫力あるクリストファー・ノーラン監督だからとても楽しみだった。

 

映画は以下が同時進行で交互に描かれ、最後にほぼクロスする。

  1. ダンケルクからイギリスへ陸から船で脱出(1週間)
  2. イギリスからダンケルクに救援に向かう民間徴用船(1日)
  3. イギリスからダンケルクに向かう戦闘機(1時間)

 発想は面白いが各シーン間の時間が異なるので、シーンが変わると突然夜になったり、その次は前の昼がまだ続いてたり、同じイベントが別の視点でかなり後から再び描かれたり、変な感覚だ。

 

映画でもドイツ軍の戦車が止まったと話が出る。ヒトラーが袋のネズミ状態の憎き英仏軍を前に停止を命じたのは謎とされるが、電撃戦の空前の大成功の後で最後に慎重にしたのはわかるような。そもそも数や国力で劣るドイツは消耗戦は避けて戦略的勝利を重ねるしかない。しかしこの間にイギリスは民間徴用船を含めた大撤収を成功させてしまい、後の連合軍による西部戦線反攻(D-Day)に繋がってしまうのだ。仮にナポレオンなら撃滅戦を行ったのではないか。

 

映画の冒頭ではイギリス歩兵が街で銃撃に追われ海岸に辿り着くが、説明なし、敵は見えない、主人公にカメラが付いて回ると、後の「1917 命をかけた伝令」(2020年)の奔りみたいだ。

 

しかし細かい揚げ足を取るようだが、色々とリアルに感じられない。

  • 人間なら撃たれたくない。まず銃撃された方向を考えて物陰に隠れながら逃げるのが普通なのに、道の中央を皆でどんどん歩いて次々撃たれて減るなんて映像&ストーリー優先とは思うが不自然すぎ。
  • 船のすれ違いもスピットファイアの編隊も間隔近すぎ。映像優先はわかるが、これではアクロバットだ。
  • 砂浜に並ぶ兵士を上空から海岸線に沿って延々と何回も映す、ここが I-MAX 撮影の見せ場と思うが、30万人もの大撤収なのに人数が余りに少ない。民間徴用船も10隻くらいしか見えない。安易にCGを使わないのは偉いが、予算制約なら見せ方を考えて欲しい。しかも後ろの街並みは現代風で綺麗なのも違和感。
  • スピットファイヤは何回も敵機と遭遇しては撃ちまくる。弾切れが心配になる。「紅の豚」ではここぞという瞬間だけ押してたが、なんか幼児用テレビゲームみたいだ。あと弾が届く時間を考えて敵機より少し先を狙うべきじゃないのか。

 

それでも肝心の人間が描けていれば良い。民間船の3名、特に船長のドーソンと息子のピーターの演技はなかなかで、息子の変化がかっこいい。ただそれ以外は、船の沈没などの恐怖を監督得意の描写で描いて窒息恐怖症になりそうで迫力満点なのだが、しかし同じようなシーンが反復される。まぁダンケルクは海に追い詰められた話なので当然とはいえ、やっぱりワンパターン。どうせ細部はフィクションなので、「ダークナイト」のようにキャラクターに合わせた山場が欲しかった。

 

そして遂に3つのストーリーがクロス、といっても特に劇的に絡むわけでもなかった。これはリアルなのか拍子抜けなのか。

 

エンドはチャーチルイギリス賛美で終わる。「1917 命をかけた伝令」のように「実はもう一つ」がある訳でもない。この撤収成功で「ダンケルク・スピリッツ」が盛り上がったのは事実だが、なんだーただの英国ナショナリズム映画か、みたいな感じだ。

 

ただイギリスの田舎町で住民が「敗残兵」を温かく迎えるのは良いシーンだ。生きていれば次の希望もある。旧日本軍のような「お国のために死ぬことが名誉」「自分だけ生きて帰るのは恥辱」の精神論的美学ではない、しぶとい歴史と国民性を感じる。

 

確かにノーラン監督作品だったけど、なんだかなー、いまいちな作品でした。

 

映画「1917 命をかけた伝令」のワンカットと塹壕戦 - らびっとブログ

大林監督は「HOUSE ハウス」が一番

大林宣彦監督が亡くなったとの報道を見て、突然だが「HOUSE ハウス」(1977年)について書きたい。大場久美子でハウスでもククレカレーではなく映画の話です念のため。

 

著名な作品は皆さんが沢山触れてくれると思う。

  • ハイライトシーンが演劇か!の「ねらわれた学園」(1981年)
  • 元祖TS学園映画の「転校生」(1982年)
  • これぞ知世神格化映像の「時をかける少女」(1983年)

 

でも私には大林監督と言えば「HOUSE」だ。

 

CMで活躍していた監督の初劇場映画作品だけど「最初だからインパクト」ではない。大林作品を色々見てから、初期の作品らしいと雑誌「ぴあ」で見て板橋区あたりの名画座で一人で観たと思うがそのインパクトは忘れない。

 

映像の魔術師」と言われる監督だが、映像はリアルや幻想的というより、コラージュやサブカルの世界と言うか、安易なマンガでチープで手抜きにしか見えないシーン続出なのだが、それが前後の情緒的で耽美な当時の少女漫画的世界と不思議に繋がって飽きない。

 

そこが次第に世間一般向けに名作調になってしまった作品群とはまた別の、「こんな表現もしてみたい、これはどうだ」「映像は爆発だ!」なニッチでストレートな初期の破壊力が感じられる気がする。

 

それでいてファンタが可愛いアイドル映画だし(すみません大場久美子目当てで観ました堪能した)、友情出演の農夫(小林亜星)は笑えるし、おばちゃま(南田洋子)はディズニー映画悪役のように圧倒感あって美しい。

 

この予告編だけでもカオス満載(4/12 11:00 リンク訂正/追加)。

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AFSイベントでの予告編。アートだ。

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そしてこの導入部だけでも女学生世界の妙な平和さが違和感で既に怖い。

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違和感と美、破壊と計算が共存した気軽なコメディホラーかなと思う。良くこんな変な劇場映画を作れたものだ。

 

騙されたと思って探して観て欲しい。ただ「ほんとにチープじゃんか」とのクレームはスルーさせて頂きます(^^)/

 

ご冥福をお祈りします。

映画「ジョジョ・ラビット」に見るナチス

映画「ジョジョ・ラビット」(2019年、監督 タイカ・ワイティティ)を観た。

 

題名は「臆病者のジョジョ」の意味。コメディーだが主人公の少年ジョジョの心の友がヒトラーという一見あぶない映画で、アカデミー脚色賞受賞。

 

ヒトラーナチスも年月経過で色々な表現が一般にも許容されてきた流れですね。

 

例えば、後に「全体主義の起源」を書いた政治学者のハンナ・アーレントは、ナチス・ドイツから運良く逃亡できたユダヤ人だが、戦後のイスラエルでのアイヒマン裁判を傍聴して、彼らは邪悪な暴力主義者ではなく、むしろ我々と同じ小心者の人間と分析して、大多数の家族友人から非難され絶縁された。(なお周辺諸国は大量のユダヤ人亡命に対して国境閉鎖したため、多くが脱出できず強制収容所送りとなった。表面では反ナチスや理想を掲げても、目前の難民は見捨てたいのは変わらない。)

 

確立されたステレオタイプは強固。私が子供のころは、ヒトラーナチスは精神異常者で性的倒錯者の集団という主張が普通だった。(逆差別は不毛かと思う。「愛の嵐」なんて倒錯愛の映画もあったが。)

 

しかし、ヒトラーを人間として描いた「ヒトラー 〜最期の12日間〜」(2014年)や、現代にヒトラーがタイムワープしてくるコメディ「帰ってきたヒトラー」(2015年)などと同様に、本作も、相手を悪者に描くだけではなくて、あなたはどうなの的な視点もあって重層的なエンタメだった。勿論ナチスの主張や行為も後半かなり描かれている。

 

映画的には、主人公が映画デビュー作とか、コメディアン出身の監督がヒトラー役も兼任とか、観てから知った。多才だ。ビートたけしか。

 

大きなネタばれは避けるが、まずオープニングやジョジョの部屋が親衛隊などナチス風の凝ったデザイン満載で引き付けられる。そしてヒトラーの振る舞いや消え方が徐々に変化するのもうまいし、最後の方は記録映画かと思うほど演説が似ていてさすがコメディアン(これは少年の成長も表していると思う)。そしてジョジョの目線の高さに母親の靴のレイアウトがトラウマになりそう。

 

終盤では武器マニア風の女性事務員が子供達に「ほら、アメリカ兵にハグしておいで」と次々送り出すのが、ごく軽く描かれているのが却ってブラックだが、本国に攻め込まれて窮した国がやることはどこも大差ないということか。

 

つい、守備側は街頭に出て突撃しては不利だろうとか、敵占領直後に若い女性(ユダヤ人でもドイツ人)が身ぎれいにして家から出るのは危険とか心配してしまう。演劇に近いと思えば良いのですが。

 

いきなりソ連が出て、ここはエルベ川近郊かと驚いたが、直後の展開で納得。しかしこの使い分けはリアルだけどちょっとずるい。演劇に(以下略)

 

そしてラストは少女役のトーマサイン・マッケンジーの正面映像が目に焼き付いてしまったカットで終了。別の意味でずるい。しかし映画的な見事な構成でした。

 

映画「パラサイト 半地下の家族」勘違いな批評も多い

映画「パラサイト 半地下の家族」(2019年、監督 ボン・ジュノ)を観た。劇場混んでた。

 

個人的には絶賛の「グエムル 漢江の怪物」の監督で、カンヌやアカデミー受賞と聞いて期待してたら、うーん普通のテレビドラマみたいな展開で演出も普通、これはハズレだったかと思ってみていたら...

 

www.parasite-mv.jp

 

予告編で「ネタバレ厳禁」と出るけれど、実際そう思うので後半の展開は書かない。

 

サイトの監督メッセージには「道化師のいないコメディ」「悪役のいない悲劇」。なるほど。

 

まず、好き嫌いは分かれる作品と思う。それで良い。誤解を恐れずに言えば、映画好きな人にはお勧めしたい

 

次に、経済格差を舞台にしているけれど、単純な格差批判の社会派映画ではない。ある新聞が、貧困にしては半地下が広いと書いていたけれど、ちょっとズレてる。

 

また、貧しい家族が皆才能ありすぎとか、避難生活の日も立派な服装で出勤とかは確かに不思議だけど、そこは本筋ではない。

 

あと「日本は韓国に映画で負けてる」とかの単純な国家比較も見当違い。監督の作品はもともと面白いし、どの国でもつまらない作品は多い。受賞数での単純比較は形式の権威主義だろう。

 

登場人物が自分の想いをべらべら喋ったりしないから、「万引き家族」のように、観客が登場人物やシーンを感じたり解釈できる作品かな。

 

細かい伏線や暗示が多くて、宅配ピザが何回も出てきたり、家のカメラアングルが凝っていたり、何故か何回も見たくなる感じ。なお「プラン」は韓国で良く使われた言葉とか。なるほどです。

 

そして、最後は家族愛なのか、絶望なのか、将来への希望なのか、不思議なラストには江戸川乱歩の小説「人間椅子」を連想したのでした。あれは怖い!

映画「1917 命をかけた伝令」のワンカットと塹壕戦

映画「1917 命をかけた伝令」(日本公開 2020年2月、監督 サム・メンデス)良かった。お勧めです。戦争映画の形ですが、とても映画らしい映画でした。

 

ただ原題は単に「1917」。スピルバーグの「1941」やオーウェルの「1984」も連想する。日本人に第一次大戦が馴染みが低いのはわかるが、「命をかけた伝令」との副題はベタすぎると思った。

 

 

疑似ワンカット映像

 監督が祖父から聞いた実話がベースで、第一次世界大戦西部戦線を舞台に、無名の伝令が攻撃中止命令を伝令するだけの話だが、宣伝文句の「全編ワンカット映像」がうまく効果を出している。

 

「全編ワンカット」とは、事前の準備はとても大変だが、カメラは1台で済み、撮影も編集もわずか2時間で終了するので、大変楽な映画製作方法で、今後は主流になるといわれている。なーんてことは勿論ない(^^;

 

「カメラを止めるな!」の前半パートなどの「本当のワンカット」ではなく、ミュージックビデオによくあるデジタル編集でうまくカットを繋いで、ワンカットに見せているから、いわば「疑似ワンカット映像」。しかしそれでも、カメラ(観客)はほぼリアルタイムで主人公に同伴し続けて、更にレイアウトや映像が美しいので、体験共有できる没入感はなかなか。

 

しかし本当のポイントは「主人公がその時に見聞きできた以上の説明は一切無い」ことで、背景とか相手の想いとか、全て推測するしかない。ここは好き嫌いが分かれるし、分かれて良いと思う。私は良かったと思う。

 

1泊2日を2時間にするため、距離や時間はデフォルメされている。主人公の主観的時間軸でもあり、監督が演劇出身なのもなるほど。そして監督が人間の善悪対比のうまいクリストファー・ノーランの影響を受けているのもなるほどです。

 

ここで舞台背景の復習を。

 

西部戦線塹壕

 第一次世界大戦サラエボの皇太子暗殺事件を契機に、英仏露などの連合国と、独墺などの中央同盟国の間で4年間も続いた。当時は世界経済も好調で、各国は開戦を避ける努力をしたが、勢力均衡による平和を主張して数十年かけて構築した軍事同盟が、この時は単なる一地方の偶発的事件を世界戦争に発展させてしまった。

 

特に仏独間の西部戦線」といえば悲惨な塹壕だ。機関銃の発達と大量運用により、従来の騎兵や歩兵による突撃は鉄条網で足止めされ機関銃でなぎ倒されて、死傷者は激増、英仏海峡からスイス迄の長い国境線に大小の塹壕が何重にも掘られて、戦線は膠着状態に。

 

塹壕にいても狙撃や砲撃で死傷が続くが、無人化すれば占領されるため、ナショナリズムに燃えて戦場での華々しい活躍を夢見る若者が続々と補充されては、湧き水など劣悪な環境の塹壕で延々死傷する「消耗戦」が何年も続くという地獄。そう、兵士は消耗材なのだ。

 

だから塹壕戦は英仏独などのトラウマで、この悲惨を描いた小説・映画には「西部戦線異状なし」がある(悲惨な消耗戦の状態が「異状なし」という怖い題名だ)。またロンドンの「王立戦争博物館」には塹壕を模擬体験できるアトラクション風の展示もある(おもわず「かわいい」と思ってしまう悩ましい兵器の展示もあり、お勧めです!)。そして今も不発弾処理が続いている。

 

なお塹壕戦対策として毒ガス、そして塹壕突破のため戦車(イギリスでの暗号名「タンク」)が登場するが、この大戦では状況打破にはならない。(映画では放置された1台が見えるだけ。)

 

そして連絡は有線電話が中心のため、まだまだ「伝令」が重要だった(後に第二次世界大戦を引き起こすヒトラーもドイツ側の伍長で伝令でした)。

 

戦争映画かスリラーか

 映画に戻ります。

 

最初は木陰での休息から塹壕へ。それも平和そうな景色から、後方の食事洗濯などの生活から、簡易な浅い塹壕、そして前線の深い塹壕や疲れて荒れた様子まで、画面どうりに「地続き」なのが圧倒される。生活も戦闘も同時に続いているのが戦争だ。そして観客には、時間と距離のデフォルメも最初から始まっていることが判る。

 

途中で兵士の「クリスマスに帰れるか」の会話が聞こえるが、これは1914年の大戦勃発時の各国兵士の楽観論「この戦争はすぐ終わる、クリスマスには帰れる」をイメージしていると思う。

 

この映画は「戦争映画」か「スリラー」かの議論があるが、戦争映画としてシビアに見ると、いくつか気になった。

 

まず主人公ら2名が前線を突破するシーンでは、敵前かもしれない場所でも2名が常に一緒に移動する。ここでカメラは嘘のように離れたり回り込んだり水上を通ったりと「ワンカット」映像の凄さを見せつけるので、2名を常に近い位置に入れたかったのはわかる。しかしこれでは2人は良い標的だ。1名が構えて援護、1名が進むを繰り返さないと危険すぎ。戦闘は未熟な兵士なのかもしれないが、これは気になりまくりだった。

 

逆にドイツ軍の塹壕(要塞の一部?)はやけに立派でいかにもドイツという感じで面白かった。エイリアンとか異文化への侵入(^^;

 

そして狙撃兵の潜む建物への突入などは、映画の変化や時間経過の必要性はわかるが、兄を含めた1600名の命を救う使命を持った伝令としては任務の優先順位が疑問。同等の人数と武装なら守備側が有利だし、仮に勝率が0.5でも、川に沿って大きく迂回も可能な地形に見えるし、伝令を優先すべきと思ってしまった。

 
とはいえ相手の意図などが見えないのはリアル。助けた敵パイロットに仲間が刺されるシーンは「ひどい」とか「戦争の狂気」との感想も見ますが、捕虜は可能なら敵を殺して自力帰還すべきなのは基本任務。だから確保側も本来は威嚇しなから武装解除する。

 

このシーンでは救助を優先して武装解除の余裕は無かった訳ですが、パイロットは狂信的だったのか、パニック状態だったのか、捕虜は惨殺されると信じていたのか、何か誤解があったのか、そもそも主人公は見ていないので何もわからない。ただこの後で、それでも主人公は若い敵兵士を殺さないようと行動するが、また別の結果に終わる。結果的には間違った判断だったかもしれないが、戦争や人間はそういうものかとも思う。主人公はその時点でできる事を選択している連続なだけだし、説明セリフが一切無いだけに後々も考えさせられる。


そして後半は、照明弾らしき光で照らされる夜の廃墟、燃える街でのフランス人の婦人、合流した部隊などは、主人公も疲弊しているためか、戦争映画なのに美しくもあり、もはや幻想世界のようだ。

 
最後には任務の後で、実は別の伝令が残っており、木陰で休む映画の最初に回帰するようなシーンで終わる。伝令は総攻撃を中止させただけで、特に英雄でもなく、当時は多数繰り返された小さな物語の一つすぎない事を暗示しているようだ。

 

まとめ 

 「1917 命をかけた伝令」はスペクタル戦争映画ではないが、塹壕戦を舞台に、個人の小さな体験を観客が同伴し続けて、そして何を感じたかも観客次第という、売りは最新映像でも、実はとても映画らしい映画でした。

映画「この世界の(さらにいくつもの)片隅に」が残念だった理由

前作の「この世界の片隅に」(2016年)は、本当に素晴らしい作品だった。それに約40分間を追加した新たな映画「この世界の(さらにいくつもの)片隅に」(2019年12月)を、是非見たくてやっと正月に見たが、好きな作品なだけにとても複雑だった。

 

前作は、映画館で最初のシーンを見たとたんに引き込まれた。いきなり絵本のような緑がかった青い海と空、空想と混ざった幼い記憶が劇中劇のように語られて、オーバーアクションも紙芝居も避けた人間の細かい動作に枚数かけた実に丁寧な作画、そして物不足とか憲兵とか悲惨なはずのシーンまで最後はギャグっぽく軽妙にまとめてしまう原作の味、その品質がなんと全編続くのだ。こんな職人気質の良質な長編アニメーションが、大手商業ベースでなく(まぁ採算取れると思えない)クラウドファウンディングまで使って地道にこつこつ作り上げられた事に本当に驚いたし、素晴らしいと今も思っている。

 

もちろん「どこが良いか」は人それぞれで良いけれど、単純に「戦争もの」とか「反戦アニメ」や「戦争の悲惨さ」などの言葉を見ると「うーん違う」と思えるほど当時の世界や人間を描けている、少なくとも並のステレオタイプな実写よりはるかに。超ロングランが続いたのも納得の作品。

 

だから長尺版は楽しみだった。ただ題名は1作目題名への追加挿入が「さらにいくつもの」と「(さらにいくつもの)」が混在して検索でややこしかった(スクリーンでは「さらにいくつもの」が後から浮かび上がってくる。つまり括弧は無い。)

 

しかし劇場でショックを受けた。考証の進展に合わせて背景など細部が改良されていたが、肝心の追加シーンは全て色合いも作画もいまいちで、「あ、このシーンいいな!」と思うと、常に実は1作目のシーンだと気づいてしまう。

 

遊女の白木リンのエピソードが1作目映画では大幅に削られていたので、長尺版で「復活」したのは正しかったと思う。ただ、平版なカメラアングルで、長い会話の間も動作や表情変化も少なく、すずさんのまつげも妙に黒く硬くて、原作や映画1作目のような軽妙なオチも無い。お花見の桜も普通に見えてしまった。

 

歴史考証もいいけど、基本は人間ドラマなので人を丁寧に描いて欲しかった。まぁ1作目が秀逸すぎで、普通のアニメなら十分な品質ですが、一緒になると作品全体のレベルを引き下げてしまって哀しい。

 

救いは長尺版が「別作品」扱いなこと。これが「映像研には手を出すな」にロボ出演した「やぶにらみの暴君」のように、作者が後年作った低品質改悪版(「王と鳥」)を「本物」として、旧作を見つけ次第廃棄しだしたら「人類文化の損失だー」と耐えられないところでした。でもこれから観る人の多くは「さらにいくつもの」だけを観てしまうのだろう。

 

今も好きな作品にネガティブな事を言うするのは気が進まない(2か月弱かかってしまった)。

 

お詫びに「この世界の片隅へ」ファンの方へ。原作者のこうの史代の漫画「夕凪の街 桜の国」は短編ながら超名作です。こちらも是非(^^;

 

 

映画「アナ雪2」このシーンが凄い

映画「アナと雪の女王2」(2019年、監督 クリス・バック)の感想です。「ここが凄い」と「ここが気になった」をなるべく簡単に。軽いネタばれあり。

 

 

ここが凄い

 

2013年の前作「アナと雪の女王」の6年ぶりの続編で同じ監督。ディズニー長編ヒット作の「2」なので、前作のイメージや各キャラクターのファンを裏切らず、しかし新しい面も求められ、勿論「政治的な正しさ」(PC)も厳格に求められるので大変だ。

 

でも「2」は「1」の世界観を保ちながら、舞台や話を発展させて、スペクタクル要素の爽快感も出せたと思う。いきなり国王と王妃まで出てきたのは驚いたけど。

 

最初の登場人物紹介も、エルサがうっかりバルコニーの手摺を氷らせたり、街の子供に氷細工を依頼されて苦戦した表情したり、クールで万能なだけでないところが幅があって楽しい。

 

また「1」ではほとんど描かれなかった城の従者や、王族関係以外のシニアなカップルや平民同士のカップルも登場して、さすがの多様性配慮。

 

アナとクリストフの似た者同士漫才も面白い。

 

「イントゥ・ジ・アンノウン」(心のままに)も慣れてくると今回も名曲で松たかこさすが。

 

そして「2」ではエルサが陸海空の戦闘シーンで大活躍。今回も能力を使う前の「ため」がうまく、いざとなると両脚をふんばる古典的プリンセスを超えたポーズまで。でも必殺技はティアラ形の氷バリヤーで、実は「1」の戴冠式と同じデザインのサイズ違い、あくまで防御メインと一貫しているとこがいいですね。

 

ここが気になった

 舞台的に仕方ないけれど暗い画面(夜間、霧、水中、地下)が多かった。

 

そして今回のテーマ「なぜ、エルサに力は与えられたのか―。」は、何故危険を冒して、一緒に行くとのアナとの約束を破ってまで、エルサが謎の解明に突き進んだのか、その心情がいまいちわからなかった

 

もちろん「何故エルサだけ魔法が」「謎の声は」「アレンデールの異変は」「深い霧は」「戦闘理由は」「ダムは」「複数の魔法が」「あの海難は」「北の島とは」と謎三昧の構成ですが、「私はどうしても解明したい」と想いが、「イントゥ・ジ・アンノウン」の歌詞以外には見えなかった。

 

「1」でも想いはミュージカルパート自体で語っているけれど、ミュージカルの中で揺れる想いが描かれていたのと比較すると、「2」ではちょっと一本調子に見えてしまって、やっぱり「1」の方に共感できたのでした。

 

(おまけ)「3」も可能な終わり方でしたね。さすが商売上手(^^;

映画「アナ雪1」このシーンが凄い

映画「アナと雪の女王」1作目の「このシーンが凄い」を書いてみました。2作目は1作目のイメージを保って丁寧に良くできているけれど、やっぱり1作目の方が共感できるので、その映画的な凄さを振り返ってみました。

 

 

ミュージカルが主役

 「アナと雪の女王」(2013年、ディズニー、監督 クリス・バック)は原作「雪の女王」とクレジットされるけど、ほぼ完全なオリジナルで、アカデミー賞の長編アニメーション賞と歌曲賞(レット・イット・ゴー)も受賞した大ヒット作ですね。

 

もちろんディズニー長編アニメの伝統のミュージカル仕立てのプリンセスものファンタジーなのですが、前半30分の感情引き付けが半端ない映画と思うのです。

 

ディズニーも含めた多くのミュージカルは、登場人物が「楽しい、悲しい」となってから、ミュージカルパートが始まって空想を膨らませて表現する。ミュージカルシーンは楽しいけれど、ストーリー上はオマケで修飾にすぎないとも思います。

 

でも「アナ雪」ではミュージカルシーンの中で登場人物の想いやストーリーが展開する。うまくいけば音楽・歌・踊りに合わせて文字通り「劇的」なインパクトを観客に与える事ができるけど、下手すると登場人物の想いやストーリーが観客に説明不足になりかねない。

 

個人的には、1作目も2作目も良くできているけど、1作目(特に前半)はミュージカル自体がドラマチックで「単なる子供向けではなく深い」「これぞ映画」と思わせるのに、2作目はちょっと「登場人物がそうする必然性がわからないなぁ」と思えてしまったのでした。

 

そこで1作目の前半のミュージカルパートを3つほど、振り返ってみました。

 

「雪だるま作ろう 」

 まず冒頭の村人シーンは、作品世界やクリストフらの紹介に加えて「氷は美しく役に立つ」の伏線かと思うけど、省略。(なんとなく東映動画の「太陽の王子 ホルスの大冒険」を連想してしまいましたが ^^;)

 

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「雪だるま作ろう」は明るく楽しいメロディーなのに「常に拒絶される歌」。事故の記憶を消されたアナが無邪気に歌うほど痛々しく、エルサの拒絶もアナの安全を想うが故、という悲しい背景が描かれ引き込まれる。民謡の「シャボン玉飛んだ、屋根まで飛んだ」が、実は死んだ子供を想った歌と知った時のようだ。

  

そして途中で挿入される国王夫妻の海難シーンは、荒波がゆっくり高く伸びて水面に何も見えなくなるだけのシンボリックな映像表現が映画的だし物語的。そして再開する悲しげな「雪だるま作ろう」の歌では扉を挟んだ二人の世界の断絶が描かれ、最後まで救い無く、ただの子供向けとは思えない。(この楽しかった子供時代との対比が、後のオラフ活躍にも活きてくる。)

 

「生れてはじめて」

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次の「生まれてはじめて」がまた凄い。この軽快なメロディー内で、戴冠式での開門を前に外の世界に明るい希望を持つアナと、自分の魔法の秘密を隠し通そうと決意するエルサの、相反する想いが異なった調子で交互に歌われる。しかも途中参加するエルサは後の「ありのままで」のメロディー(いわばテーマソング)を先取り披露。そして両者とも「開門」に集中する事で、観客も「いよいよどうなるのか」と没入する。

 

このキャラクターにメロディーを持たせるのは、ワーグナーや「スターウォーズ」などの手法(ライトモチーフというらしい)と思うし、異なる想いの歌が交互に重なり共通ワードに集中するのは「ウェストサイド物語」の「トゥナイト」を彷彿させますが、「アナ雪」ではこれをハイライトシーン直前ではなく導入で早々使うのが大胆で贅沢ですね。レイアウトを含め、本当に何回見ても鳥肌が立つ凄いシーンです。

 

「ありのままに」

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そして実質ハイライトの「ありのままに」(レット・イット・ゴー、レリゴー)。

 

ここでもエルサの想いの変化は、歌の前ではなく、歌の中で描かれる。トラウマとコンプレックスの重圧から、開放感、達成感、そして最後の勝ち誇ったような表情。まさにミュージルパートがドラマ本体で、前後が補足説明なくらい。

 

途中、能力封印の手袋や、王族の象徴である暗いマントを投げ捨て、優しげに子供時代のオラフを作ると、暗い「谷」を軽々と飛び越え、自力で「城」を構築して引き籠る。音楽もセリフも演技(作画)も全てタイミングぴったしで、これぞミュージカル映画だし、ビジュアルと暗示が細かく一致していて、何度見ても泣けます。

 

ディズニー初の長編アニメ映画「白雪姫」も、城から逃れる際に森で王族の象徴である黒いマントを失い、以後は7人の小人と明るく生活する。小道具の意味が暗示されていて面白い。また引き籠ると人々が天候異変で困るのは「天の岩戸」みたいですね。

 

そしてここも、歌の表面は「少しも寒くないわ」とポジティブに終わるけど、観客は「逃げて城を捨てただけで本当にいいのだろうか」とネガティブに思えるところがまたも深くて全世代向け。

 

おまけ

 ちょっと脱線しますが、いいなと思う点。

  

エルサが能力で水上を走る、谷にかけた氷の階段を登る、氷の城を建てる、ティアラを投げ捨てるなどの重要なシーンの直前で「ちょっと確認」する演技(作画)がリアリティを出していてうまいなぁと思います。

 

宮崎駿作品でも、「カリオストロの城」の屋根ジャンプ前の100円ライター操作、「千と千尋の神隠し」で外階段ダッシュ前のそろそろ歩きとか連想します。アニメは「絵空事」が容易だからこそ、(本当のリアルではなく)もっともらしさが重要かなと。

 

またアナが小川でスカートを凍らせてテケテケ歩きとかは1950年代の漫画映画を連想します。単なる王子様ものではなかった現代的な面も、古典ファン向けの面もあり、幅広い層を満遍なく配慮してるかと。

 

オラフも単なる子供向けおちゃらけキャラだけでなく、雪だるまだから気候が元に戻れば消えてしまうという悲劇的宿命を持っているのが、なんか日本の歌舞伎やアニメのような。

 

また実は悪役のハンス王子も、本国では13人王子の末っ子で恐らく子供のころから自分の国を持ちたいと願っていて、留守もちゃんとアレンデールを守っていて、本来なら優秀な国王になれた人物にも思えるのがいい。

 

最後に純粋悪役のヴェーゼルトン侯爵は登場時から自分は悪者だと喋りまくっていて逆に愛嬌がある。こちらはディズニー伝統のキャラで、これまた両方揃えているところがうまいですね。

 

(今回を踏まえて、次回は「『アナ雪2』このシーンが凄い」 です。) 

映画「翔んで埼玉」さすがの配慮

映画「飛んで埼玉」は映画館で泣けたが地上波も良かった。作品上の配慮がうまい。CMが多くて流れ寸断だけどノーカットは嬉しい。しかしTV放映直前のネタばらしまくりは悪質だった。なお私は高知生まれ埼玉育ちの神奈川在住です。

 

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徹底した配慮

この映画は、「パタリロ!」で有名な魔夜峰央が1982年の埼玉・所沢在住時に自虐的に描いた僅か数話で中断の同名漫画が、2015年頃に何故か「この漫画が凄い」と話題になって2019年に実写映画化され大ヒットした「埼玉ディスリ映画」(主演 二階堂ふみGACKT)ですね。「パタリロ!」同様に、お耽美・男色・時代錯誤・様式美なギャグ漫画をどう実写化できるか、過激な差別描写がどうなるかかなり心配でした。

 

しかし公開直後から「良かった」感想が多く、徹底した配慮尽くしのお陰かと。まずポスターからして「茶番劇」と相対化して「何も無いけどいい所」とヨイショ。

 

映画の構成も、原作部分は「伝説パート」で、映画独自の「現代パート」で劇中劇にして、現代パートの菅原愛海(実際に埼玉出身の島崎遥香)が「伝説パート」を「都市伝説」で「バカバカしい」と繰り返す。原作で友情出演のパタリロが作者に「浦和から文句が来てもしらんぞ」とか突っ込む描写の代わりですね。

 

更に「伝説パート」内でも、原作ではデパートで埼玉県民とバレた麻実麗らが一般客から冷たい眼を向けられ差別の根深さを再認識するという結構重要なシーンが、映画では一般客はアホっぽく卒倒だけで問題は一部の上流階級だけのように変更されている。

 

あと原作の「埼玉県解放連盟」は、映画では「埼玉(千葉)解放戦線」とネーミング変更で更に架空っぽく。

 

そして、あの魔夜峰央のお耽美世界を敢えてそのままコスプレ再現して「伝説パート」の架空性を強調し、交互の「現代パート」対比で飽きさせないのも効果的。「男色」嫌悪者も、現代パートの「BLになってる」との突っ込みセリフで相対化されてる。

 

もちろん最後は「この映画は埼玉解放戦線制作か」と評されたヨイショのオンパレード、とどめがエンディングのはなわで、これまた最後は評価で終わる。冗談慣れしてない観客を含めて、うっかり本気にしたり怒ったりしないよう、何重もの配慮がされているのがすごい。

 

埼玉ネタ 

 

埼玉ネタが、大きいものから細かいものまで仕込まれていて、知っているレベルでそれぞれ笑えるのもいい。

 

山田うどん」は行きと返りの2回も出てくるし、愛海の婚約者(これまた実際に埼玉出身の成田凌)の車が赤いのも浦和レッズファンだからと思うし(浦和地区は昔からサッカーが盛んだが、レッズは熱心すぎるファンも多く、等々力のホーム側入口にトラブル防止の警告が置かれるのは対レッズ戦のみなのも元サイタマンとして恥ずかしい、どうにかならないのか (^^;)

 

与野は黙っとけ」は、昔から行政都市で県庁所在地の浦和(いわばワシントン)と、商業都市で大都市の大宮(いわばニューヨーク)の対立があり、合併交渉は難航して「さいたま市」という変な市名で双方妥協したが、中間の小都市の与野は昔も今も発言権が無いというリアルな話。

 

もともと埼玉は独自の有名戦国武将もおらず、特に熊谷を中心とした北部と、大宮を中心にした南部が明治の廃藩置県で無理やり同じ県にされた事もあり、何回も分離騒動もありまとまりには乏しい。だから強者を前に分裂気味なのもリアル(^^;)

 

まぁ名所が無いといっても、川越や秩父や所沢航空公園の他に、長瀞吉見百穴、サイボクハム、森林公園とか、鉄道博物館渋沢栄一記念館、ぎょうざの満州、(発祥は富山ですが)富士薬品セイムスとかもあるけど...北部は疎いけど、どれもマイナーでしょうか(^^;)

 

まとめ

 

あの問題作の原作を元に、洒落の通じない人も含めて楽しめる、何重ものうまい配慮が活きている。

 

脱線するけど、西武・そごうのパイ投げ広告が批判されたのは、画像が暗くて一般人が単にいじめられて見える写真だからだし、赤十字の最初の宇崎ちゃん献血ポスターは中央のバストだけ視線集中する構図のせいだし。

 

世間はすぐ「表現の自由派」と「公共規制派、平穏生活権派」で不毛な喧嘩をするけど、多くの人は一見での直感判断なので、大半は単に作品制作時のセンスの問題と思う。(特定層向けや批判覚悟で過激表現するのは勿論良いけど、一般狙いのプロなら両立も練ってほしい。)

 

映画「翔んで埼玉」は、あの原作の作品世界をかなり忠実に実写化して、過激セリフはそのままに、でも多くの一般客にも受容できて見終わって笑顔で帰れる形にして、さすがと思うのでした。

 

感想『ジョーカー』お勧めです! 好き嫌いは分かれそうですが(笑)

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はじめに

初めての個人ブログです。よろしくお願いします。趣味で好きな事を書きます(^^)/

公開2日目(10/5)の朝に2D吹替版で。初日夕方はも今回も満席でした。直前にヴェネツィア国際映画賞 金獅子賞受賞と知りましたが、これならなるほどなーの見応え満点でした。ただ相性はありそうなのでご注意を(笑)

この映画は「バットマン」を全く知らなくても多分楽しめます。ただ「ゴッサムシティ―はアメリカの架空の都市、ジョーカーは悪役、バットマンの本名はブルース・ウェイン」だけ知っていると良いかと。

多分「ヒーロー、アクション、明るい活劇」を期待すると「うーん」ですが、人間の善意と狂気、社会の不条理、(被写体は汚いけど)美しい映像を観たい人にはいいかもです。

以後は多少のネタバレご注意です。

暴力シーンが過激?

「面白いけど暴力シーンが過激」とか「街で暴力を誘発するのでは」との評が多い気がしますが、実は過激シーンや時間はごく少ない。『ゴッドファーザー』や『キル・ビル』の方が過激満載、『マトリックス』なんか普通の人にしか見えない警備員を、こちらは嘘の世界だと黒服が無表情で殺しまくるとか、狂信団体テロ肯定風ですよね(そこがいいのですが)。

『ジョーカー』は日常感が丁寧で強いからリアルに怖いのでは。良くあるアクション物のように短いカットでテンポ良く見せるのではなく、『パルプ・フィクション』や『万引き家族』のように一見必要性が不明な日常シーンを長々演技させる事で観客が色々解釈できる、時間を支配できる映画ならではの魅力が圧倒的でした。でも実は音楽が「ここから不安なシーンだよ」とか細かく暗示誘導してくれるから、「難解でタルい」にはならないのが上手い気がします。

あと最後に違和感無いようにか、主人公(アーサー)は実は悪い奴や嫌な奴しか危害を加えず巻き添えも無い。ピエロ仮面による少年の両親射殺も、そのセリフは私利私欲や愉快犯ではなく義憤に感じる。もちろん悪人も善人も白人と非白人が配置されている。隅々まで良くできている気がしました。

ちょっと脱線ですが、作品は明らかにトランプ現象など「忘れられた人々」を模しているので、この映画に触発された犯罪や暴動を懸念する記事も多いですね。ただ歴史を見れば、身分制度など格差が大きくても経済が安定していればそう暴動は起きないと思います。映画にもある、失業や福祉サービス切り捨てなど「悪化する一方だ、この社会は続かない、子供のためにも立ち上がらないと」と広く思われだした時に、フランス革命ロシア革命も、あるいはファシズムやナチズムも拡大したのだと思います。日本ではゴザ暴動でしょうか(突発的ながら、目標限定で整然とした暴動だったようですが)。私は平和主義ですが、歴史的には民衆蜂起が常に悪とは限らないと思います。

ジョーカーのイメージって?

個人的にはジョーカーのイメージは合ってました

子供の頃見た白黒のテレビシリーズではバカげた騒動を起こす怪人で、ティム・バートン監督の映画『バットマン』以降は「面白ければ良い」のクレージーで実はインテリそうな多弁な道化師。「悪の組織のラスボス」ではなく、すぐ前面に出てくるパフォーマーで、有利不利より悪趣味優先がお約束。映画『ダークナイト』の登場シーンでは自分が射殺される恐れも高いのに面白いからとぼけてたとしか思えない。凶悪だがどこか間抜けで愛嬌あるヒール役というイメージがあります。(優等生的な後期ミッキーよりドナルド、ウルトラマンより怪獣側、ティム・バートン作品にも通じますね。)

ただ映画『ジョーカー』では観客感情移入や作品後味のためか善人すぎて、教育もろくに受けられなかったようなのに突然知的なセリフが出るのがちょっと違和感でした。

個人的に印象的だったシーン

アーサーが母が大好きなテレビ番組の観客席にいると、思いもかけず舞台に呼ばれて司会はノリノリ、想いが伝わり抱擁、それを映すテレビカメラ。その一連を流れるように捉えるカメラワークが見事。あぁアーサー、ずっと苦労ばかりだったけど良かったじゃないか、母親もきっとテレビで見て感激だろう、一夜限定でもまさに夢のような展開と映像だなぁ、夢のような... うまいなぁ。

アーサーがウェイン邸に行き少年ブルースに会う。門で偶然会うのではわざとらしいが、ただカメラが横に引いていくとふと目が合って、両者が同じ方向に歩いていって... これもうまいなぁ。アーサーが子供に優しいのはバスの伏線があるし、少年が関心を持ったのは手品だけど、もしや将来の宿命を感じたのかも知れない。セリフが最小限なので観客が色々解釈できる。更に勝手に妄想すると、もしかして裕福だけど冷たそうな館で「笑わない」少年が最初に魅かれたのは貧しいが優しい将来のジョーカーで、彼の引き起こした騒動で両親が殺されたのに、彼は人を憎まず犯罪と延々ストイックに闘っていくのか、なんとドラマチックな構成なのか、とか考えすぎでしょうか(笑)

暴動のシーンでアーサーがキリストに見えたって評を見かけました。私もです(同志!)

最後に

最後のシーンは解釈が分かれそう。病院が現実で暴動は妄想だったのか。ジョーカーが誕生しないならバットマンのシリーズ全体もフィクションということか。でも福祉サービスの担当者がアーサーの話を真剣に聞きたいなんて違和感ある、もしやこっちがアーサーとしての最後の想い「僕はただ聞いて欲しかっただけなんだ、でももういいんだ、こっちは終わったんだ」なのか(悲しい)。ジョーカーは誰の中にもいるのか。

全体に重いので、映像と音楽、そして最後のレトロで明るいエンドタイトルが素敵です。

私は...映画館を出て、とても爽やかで、世界がとても優しく見えました。(うーん私が異常なのか、否定はしませんが笑)

PS.冷蔵庫は子供が真似しないことを祈ります。R15なので保護者の皆様、忘れずよろしくお願いします(いやこれマジで)。